リトアニアの国旗
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リトアニアの国旗
用途及び属性?
縦横比3:5
制定日2004年9月1日
使用色

パントーン1235c/u、CMYK=0-30-100-0)

パントーン349c/u、CMYK=100-55-100-0)

パントーン180c/u、CMYK=25-100-100-0)

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「リトアニアの旗一覧」も参照

リトアニア国旗は、三色旗である。ヨーロッパの国であるが、偶然汎アフリカ色が用いられている。リトアニア共和国独立回復前の1989年3月20日に再制定され、2004年に縦横比が 8:16 から 3:5 に変更されている。

同様の三色旗はソビエト連邦に編入される前の1918年から1940年にかけても使用されていたが、当時の国旗は現在のものと比べると色合いが明るく、縦横比は 2:3 であった。

1940年から1989年(ただし1941年から1945年まではナチス・ドイツに占領されていた)まではリトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗が使用されており、1953年までは赤旗鎌と槌が描かれ国名が書かれた旗が使用され、1953年からは赤旗に鎌と槌およびが描かれ、緑と白の帯が施された国旗が使用された。
変遷
リトアニアにおける国旗の起源

?ヴィーティスが描かれた戦旗

?ゲディミナス家の紋章が描かれた戦旗

?ポーランド・リトアニア共和国の旗(1587年?1632年

?リトアニア大公国の旗(1555年

リトアニアを象徴する旗としては、15世紀ヤン・ドゥウゴシュの著作『プロイセンの紋章』 (Banderia Prutenorum) に記録されている旗が、現在知られているものの中で最初の例である。1410年のタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い、またはジャルギリスの戦い)では2種類の旗が用いられた。この戦いでは、約40の連隊が馬にまたがい敵を追う騎士の描かれた赤い旗を掲げ、また他の連隊はゲディミナス家の紋章が描かれた赤い旗を掲げていた。騎士が描かれた旗はヴィーティスとして知られ、リトアニア大公国ポーランド・リトアニア共和国の国章にも描かれ、18世紀末のポーランド・リトアニア共和国の分割によって国家が消滅するまで用いられた[1]。さらに現代においても国章に描かれており、また2004年からは政府旗として用いられている。?小リトアニアの旗

ヨーロッパの諸共和国における国旗変更に影響を受け、リトアニアでも黄・緑・赤の三色旗が誕生した。三色旗という案はフランス革命後に採用された青・白・赤のトリコロールの影響で生まれた。リトアニアでそれ以前から存在していた三色旗は、小リトアニア地方の緑・白・赤の三色旗のみである[1]

黄・緑・赤の三色旗を最初に提案したのが誰であるかは知られていないが、この案は19世紀ヨーロッパアメリカといった海外へ移住したリトアニア人によるものと考えられている。この三色は民俗的な織物や衣装によく用いられる色であった[2]1905年のヴィリニュス大会議(リトアニア語版)において、この三色旗はリトアニア国民の旗としてヴィーティスの旗以上に支持を受けた。ヨナス・バサナヴィチュス(リトアニア語版)が強く支持したヴィーティスの旗は3つの理由から選ばれるにはいたらなかった。まず、大会議ではベラルーシウクライナなども領土に含んだリトアニア大公国の旗からは距離を置くことが望まれたことが理由としてあげられる。次に、マルクス主義者や共産主義者の主義主張に連合する革命家らが赤色を支持していた。そして最後に、ヴィーティスの旗は複雑で縫い合わせるのが容易ではなかったことが理由であった[3]
リトアニアの独立と国旗

?中部リトアニア共和国の国旗

?1918年 - 1940年の国旗、(縦横比6:9)

?1927年 - 1940年の軍艦旗、(縦横比8:16)

?1927年 - 1940年の軍艦用国籍旗

国旗に関する議論は1917年のヴィリニュス会議で再び起こった。緑と赤の2色が民族の色として浸透していたことから選ばれた。芸術家のアンタナス・ジュムイジナヴィチュス(リトアニア語版)は会議場を赤と緑の小さな旗で飾った。しかし代議員らはこの2色が暗く陰気なものだとしてあまりこのデザインを好まなかった[3]。その後タダス・ダウギルダス(リトアニア語版)が朝日を象徴する黄色の細い帯を赤(朝日に照らされた雲)と緑(大地と森林)のあいだに付け加えることを提案した。しかし代議員らはバサナヴィチュス、ジュムイジナヴィチュス、ダウギルダスの3者による特別委員会によって問題解決するよう決定した。1918年4月19日、特別委員会はリトアニア評議会(タリーバ)に議定書を提出、上が黄、中が緑、下が赤の三色旗で左上にヴィーティスを描くこととされた[3]。評議会はこの提案を受諾したが、1922年のリトアニア共和国憲法では国章に関する条文が制定されなかった。こうして現在用いられている国旗が採用された。

国旗に関する議論はその後も続いた。黄・緑・赤の組み合わせはそれまでの紋章を継承するものではなくふさわしくないとして制定された国旗に反対意見もあったが、戦間期には国旗が変更されることはなかった。
ソビエト時代の国旗詳細は「リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗」を参照

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗1940年 - 1953年

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1953年 - 1988年

?リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1953年?1988年)、裏面

リトアニア・ソビエト社会主義共和国の国旗(1988年?1990年)


第二次世界大戦中、リトアニアはまずソビエト連邦(ソ連)に、次いでナチス・ドイツに占領された。戦後はソ連に編入されたが、ソ連時代には2つの国旗が用いられた。戦後すぐは、赤旗に金色の鎌と槌が描かれ、リトアニア語で「リトアニア・ソビエト社会主義共和国」 (Lietuvos TSR) の国名が金色の字で書かれた国旗が採用された。1953年に変更され、赤旗に鎌と槌、が左上に描かれ、下部に白と緑の帯が施された国旗が用いられるようになった[1]
独立回復へ

?1989年-2004年の国旗、(縦横比8:16)

?1992年-2004年の軍艦用国籍旗(縦横比8:16)

1988年サユディスによる運動が加速していく中、リトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議は黄・緑・赤の三色旗を国旗として再制定した。ソビエト連邦からの独立回復宣言後1991年6月26日に国旗法が承認され、国旗のデザイン、大きさ、使用法などが制定された。その後1992年の国民投票で承認されたリトアニア共和国憲法の条文でこの三色旗が国旗である旨が明記されている[1]2004年7月8日、国旗法が修正され、縦横比が 8:16 から 6:10 に変更された。
デザイン

1991年6月26日に承認されたリトアニア国旗法で国旗のデザイン、大きさ、使用法などが制定されている。2004年7月8日、国旗法が修正され、縦横比がそれまでの 1:2 から 3:5 に変更され、またヴィーティスの旗が政府旗として公式に採用された。この変更はヴァルダス・アダムクス大統領にも承認され、2004年9月1日から発効された[4]

国旗、政府旗の正しい色彩はパントーン・マッチング・システムによって決められている。国旗、政府旗とも縦横比は 3:5 とされ、標準的な大きさは 1 メートル × 1.7 メートルとされる。その他の大きさのものも作ることができるものの、色彩と縦横比は法にもとづいたものでなければならない[4]

黄色はリトアニアの光輝く農地を表し、緑色は地方の自然を、赤色はリトアニアのために流されたすべての血を表している[1]。2004年に公式に色彩が決められた。以下がその内容である。

配色黄色緑色赤色(紫色[5][注釈 1]
パントーン[5][6]15-0955 TP / 1235 c/u19-6026 TP / 349 c/u19-1664 TP / 180 c/u
RGB[6]253-185-190-106-68193-39-45
ウェブカラー[6]fdb913006a44c1272d
CMYK[6]0-30-100-0100-55-100-025-100-100-0

その他の旗
政府旗2004年に制定された政府旗

2004年、国旗法改正により政府旗が新たに制定された。この旗にはリトアニアの国章が描かれている。縦横比は国旗と同じく 6:10 である。政府旗(法的には「歴史旗」と呼ばれる)はチェスロヴァス・ユルシェナスセイマス副議長とエドムンダス・リムシャ(リトアニア語版)紋章委員会議長によって提案された。

また、政府旗と同様に大紋章も提案されたが、これらはミンダウガスの戴冠750周年を記念して制定することとされた。政府旗や大紋章はアルヴィーダス・カジュダイリス (Arvydas Ka?dailis) によってデザインされた[7]。この旗は元々ジャルギリスの戦い(タンネンベルクの戦い、またはグルンヴァルトの戦いとも)で用いられたもので、中部リトアニア共和国でも用いられていた[1]。独立を目指す民族運動のなかでこの旗はリトアニア人を象徴する旗の一つとなった。

スペインドイツタイフィンランドベネズエラなどでは、市民用の国旗とは別に政府旗が制定されており、リトアニアでもこうした国にならって制定された。


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