リトアニアの内戦
内戦を終結させたパバイスカスの戦いの記念碑。
時1431年6月 ?1435年9月
場所リトアニア、プロイセン西部、ヴォルィーニ
結果ドイツ騎士団が敗北してジーギマンタス・ケーストゥタイティスがリトアニア大公となる
衝突した勢力
リトアニア大公国東部 (ポラツク、ヴィテプスク、スモレンスク、キエフ、ヴォルィーニ)
ドイツ騎士団
リヴォニア騎士団
ジョチ・ウルス
リトアニア大公国 西部(ジェマイティヤ公国、en:Trakai Voivodeship
、en:Vilnius Voivodeship, en:Podlasie)リトアニアの内戦(リトアニアのないせん)は、ヴィータウタスが1430年に後継者を残すことなく没した後の、1431年から1435年にかけて勃発したリトアニア大公国の公位を巡る争いである[1][2][3]。この内戦は、ドイツ騎士団と同盟したシュヴィトリガイラと、ポーランド王国の支援を受けたジーギマンタス・ケーストゥタイティスとの間で行われた。争いはクレヴォの合同で締結されたポーランドとリトアニアの同君連合を破壊する恐れがあった[1]。シュヴィトリガイラの同盟者であるドイツ騎士団総長パウルス・フォン・ルスドルフはポーランド・ドイツ騎士団戦争を開始したが、シュヴィトリガイラのために勝利を確保するのに失敗した[4]。
1432年にシヴィトリガイラが成功をおさめることでリトアニアの権力を掌握すると、リトアニアは2つの勢力に分裂して3年に及ぶ国土を荒廃させる争いが始まった。ドイツ騎士団によるシュヴィトリガイラへの支援の継続を中断させるためにポーランドは1434年のフス派によるプロイセン侵攻を支援した[5] 。争いは1435年9月に行われたパバイスカスの戦いでシュヴィトリガイラとその同盟者であるリヴォニア騎士団の決定的な敗北で終了した。シュヴィトリガイラは1437年に最終的に降伏した。ジーギマンタスは1440年に暗殺されるまでたった8年間統治しただけであった。 内戦に先行すること10年間、リトアニア大公国とポーランド王国は、1385年のクレヴォの合同、1392年のオストロフの合意
序章
1430年 10月27日にリトアニア大公ヴィータウタスが後継者ないし遺書を残すことなく急逝した。ヴィータウタスは1430年9月にリトアニア国王として戴冠する予定であったが、 ポーランド人によって王冠が届くのを妨害された[7]。モスクワ大公 ヴァシーリー1世 に嫁いだヴィータウタスの一人娘ソフィアは一人息子ヴァシーリー2世を儲けていたが、ヴァシーリー2世は正教徒であったことから最近にキリスト教化されたカトリックの大公国の指導者になることは出来なかった[8]。モスクワ大公家の正教信仰への執着は同時にその他多くのゲディミナス家の人物が大公請求者となるのに妨げとなっていた。そこでヴィータウタスの弟で法的な後継者であるジーギマンタス・ケーストゥタイティスとその従兄弟のシュヴィトリガイラという最も安定したカトリック教徒である2人の後継者候補がいた[8]。
リトアニアの貴族は一方的にシュヴィトリガイラを新大公として選出した[8]。これは、リトアニア人はポーランドの了承を得ることなく大公が出来ないという1413年のホロドウォ合同に違反する者であった[8] 。ルテニア人の支持を得るためにシュヴィトリガイラはカトリックと正教徒の貴族に同等の権利を与えたが、これは短い統治期間中に最終的に達成された[9]。この時にシュヴィトリガイラの兄であるポーランド国王ヴワディスワフ2世がリトアニアを訪れた。1431年11月7日にヴワディスワフ2世はシュヴィトリガイラ大公位の選出を承認する旨を述べ、1432年 8月にポーランド=リトアニア間の関係が公的に定義された[10]。しかしながら、1411年にヴィータウタス生存期間中に限ってリトアニアが支配することが同意された ポジーリャとヴォルィーニを巡る領土上の争いが原因で武力衝突が勃発した[8]。
ルツク戦争「en:Polish?Teutonic War (1431?1435)」も参照en:Alexander Guagniniによるシュヴィトリガイラ。
ポーランド軍がポジーリャに侵攻した時に、シュヴィトリガイラはヴィリニュスで兄のヴワディスワフ2世を逮捕した[11]。