リッチー・アシュバーン
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リッチー・アシュバーン
Richie Ashburn
1953年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ネブラスカ州ティルデン
生年月日1927年3月19日
没年月日 (1997-09-09) 1997年9月9日(70歳没)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション中堅手
プロ入り1945年
初出場1948年4月20日
最終出場1962年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


フィラデルフィア・フィリーズ (1948 - 1959)

シカゴ・カブス (1960 - 1961)

ニューヨーク・メッツ (1962)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1995年
選出方法ベテランズ委員会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ドン・リチャード・"リッチー"・アシュバーン(Don Richard "Richie" Ashburn, 1927年3月19日 - 1997年9月9日)は、1950年代に活躍したアメリカメジャーリーグの選手。主なポジションは中堅手ネブラスカ州ティルデン生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Whitey"(ホワイティー)。広い守備範囲を誇っていたフィリーズのリードオフマン。
経歴

1945年にフィリーズと契約し、3年後の1948年にメジャーにデビューする。1年目は117試合に出場し打率.333、32盗塁を決めルーキーでの盗塁王となった。当初は長打は少ないものの俊足を生かして安打数を稼ぐ打撃スタイルで、1951年と1953年にリーグの最多安打を記録している。1954年以降は四球を多く選ぶようになり打率が向上、1955年と1958年にはそれぞれ首位打者のタイトルをとっている。

1957年、アシュバーンはニューヨーク・ジャイアンツ戦でファウルを打った。ファウルボールは孫の帽子を直そうとしていた老婆の顔を直撃し、鼻骨を骨折させた。プレーは中断し、老婆は運ばれていった。再開すると、アシュバーンはもう一回ファウルを打った。ファウルボールは、担架で運ばれる途中の老婆にもう一度直撃してしまった。アシュバーンは花束を持って見舞いに何度も訪れ、無料観戦券を孫に贈るほか、クラブハウスに招待している。

アシュバーンはその俊足を生かした広い守備範囲の持ち主でもあった。フィリーズ在籍中の1959年までの12年間で、刺殺数(外野手ではほぼフライを捕った数に相当)がリーグ最多となったのが9度に及ぶ。この中には、シーズンの刺殺数500以上を記録した年が4回含まれている。メジャーリーグ史上で、外野手のシーズン刺殺数が500を超えたことは計8度しかない(2006年現在)が、そのうちの4度はアシュバーンが記録したものである。

1960年にフィリーズから3対1のトレードでシカゴ・カブスに移籍。カブスに2年間在籍した後、1962年ニューヨーク・メッツに移り、同年現役を引退。引退の翌1963年よりフィリーズ専属解説者となり、逝去するまで続けた。ちなみにこの時一緒に仕事をしていたアナウンサーのバイ・サームとハリー・カラスは、後年野球殿堂のフォード・フリック賞を受賞している。アシュバーンのフィリーズ在籍時の背番号「1」。
フィラデルフィア・フィリーズの永久欠番1979年指定。

1979年、フィリーズはアシュバーンの在籍時の背番号『1』を永久欠番に指定しており、野手では初の欠番指定選手だった。

1995年にベテランズ委員会選考によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。同年は後輩であるマイク・シュミットも殿堂入りを果たしている。

1997年9月9日シェイ・スタジアムで行われたニューヨーク・メッツとの試合中継で解説を務め、試合終了後に心臓発作に見舞われ、そのまま急逝する。現在のフィリーズの本拠地であるシチズンズ・バンク・パークのバックスクリーン裏の通路は、彼の名をとって「アシュバーン・アレー」と命名されている。
詳細情報
年度別打撃成績















































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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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