リッチモンド_(インディアナ州)
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リッチモンド

Richmond
ウェイン郡内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度49分49秒 西経84度53分26秒 / 北緯39.83028度 西経84.89056度 / 39.83028; -84.89056座標: 北緯39度49分49秒 西経84度53分26秒 / 北緯39.83028度 西経84.89056度 / 39.83028; -84.89056
アメリカ合衆国
インディアナ州
ウェイン郡
郡区ボストン郡区、センター郡区、ウェイン郡区
政府
 ? 市長デーブ・スノウ(民主党
面積
 ? 合計23.3 mi2 (60.3 km2)
 ? 陸地23.2 mi2 (60.1 km2)
 ? 水域0.1 mi2 (0.2 km2)
標高981 ft (299 m)
人口(2020年)[1]
 ? 合計35,720人
 ? 密度1,500人/mi2 (590人/km2)
等時帯UTC-5 (東部標準時)
 ? 夏時間UTC-4 (東部夏時間)
ZIPコード47374-47375
市外局番765
FIPSコード18-64260[2]
地名情報システムID0441976[3]
ウェブサイト ⇒http://www.richmondindiana.gov

リッチモンド(: Richmond)は、アメリカ合衆国インディアナ州東部の都市。ウェイン郡郡庁所在地である。人口は3万5720人(2020年)。オハイオ州の州境に位置し、近くのボストン郡区には市営空港がある。スター・ピアノ社のガネット・レコーズのスタジオがあり、初期のジャズ音楽の一片を成したことからときどき「レコードジャズの発祥地」とも呼ばれる[4]

経済を従来の製造業に依存してきた多くの都市と同じく、最近は新しい経済を構築している。市街には多くの歴史的建造物が残っている。「アメリカの典型的な都市賞」(All-America City Award)に二度選ばれた。
地理リッチモンドの航空写真。インディアナ州東部には平坦な土地が広がっている

リッチモンドは北緯39度49分49秒 西経84度53分26秒 / 北緯39.83028度 西経84.89056度 / 39.83028; -84.89056[5]に位置している。

アメリカ合衆国国勢調査局によると、この都市は総面積60.3 km2 (23.3 mi2) である。このうち60.1 km2 (23.2 mi2)が陸地で、0.2 km2 (0.1 mi2) が川や湖などの水域である。総面積のうちの0.26%が水域となっている。
人口動静

人口推移
年人口±%
1840年
2,070?    
1850年 1,443?30.3%
1860年 6,608+357.9%
1870年 9,445+42.9%
1880年 12,742+34.9%
1890年 16,608+30.3%
1900年 18,226+9.7%
1910年 22,824+25.2%
1920年 26,765+17.3%
1930年 32,493+21.4%
1940年 35,147+8.2%
1950年 39,539+12.5%
1960年 44,149+11.7%
1970年 43,999?0.3%
1980年 41,349?6.0%
1990年 38,705?6.4%
2000年 39,124+1.1%
国勢調査局から

2000年国勢調査[2]によると、この都市には39,124人、16,287世帯、及び9,918家族が暮らしている。人口密度は650.8/km2 (1,685.3/mi2) で、293.6/km2 (760.2/mi2) の平均的な密度に17,647軒の住居が建っている。人種の構成は白人86.78%、黒人(アフリカ系アメリカ人)8.87%、先住民0.27%、アジア系0.80%、太平洋諸島系0.06%、その他の人種1.09%、および混血が2.14%で、2.03%の人々がヒスパニックまたはラテン系である。

この都市に住む16,287世帯のうち、27.8%は18歳未満の子どもと暮らしており、43.1%は夫婦で生活している。13.9%は未婚の女性が世帯主であり、39.1%は家族以外の住人と同居している。33.0%は独居で、全世帯の13.7%は65歳以上の独居老人世帯である。1世帯あたりの平均人数は2.29人であり、家庭の場合は2.89人である。

住民は23.4%が18歳未満の子どもで、18歳以上24歳以下が11.0%、25歳以上44歳以下が27.5%、45歳以上64歳以下が21.6%、および65歳以上が16.4%となっている。平均年齢は36歳である。女性100人に対して男性は88.7人いて、18歳以上の女性100人に対しては男性は84.2人いる。

世帯ごとの平均収入は30,210米ドルで、家族ごとでは38,346米ドルである。男性の30,849米ドルに対して女性は21,164米ドルの平均的な収入がある。一人当たりの収入 (per capita income) は17,096米ドルである。総人口の15.7%、家族の12.1%の収入は貧困線以下である。18歳未満の子どもの22.8%及び65歳以上の10.8%は貧困線以下の生活を送っている。

国勢調査局が2009年に公表した文書によると、リッチモンドのあるウェイン郡は離婚率が19.2%と高い水準にある。そのうち生粋の住民54,810人の離婚率は19.4%で、それ以外の人々はゼロである。さらに白人は18.7%で、アフリカ系アメリカ人は11.6%。世代別では45歳から54歳にかけてが一番高く、男性で35%、女性で33.5%となっている。15歳から19歳にかけてはゼロだった[6]
歴史

何千年にもわたりこの地には多種多様な先住民が暮らしてきた。

アメリカ独立戦争の数十年後に人々が西へ西へと進出し始めるとホワイトウォーター川の支流沿いにも開拓地が建設され始め、この地にも1806年にノースカロライナ州からクエーカーの家族がやってきた。そのため、リッチモンドには今もフレンド派合同会議の本部やアーラムカレッジ、アーラム宗教学校などクエーカーに関する施設がある。19世紀中には国道40号線が敷設され、西へ向かう開拓者の幹線道路になった[7]。この道は現在、全国自動車道網の一部になっている。1928年10月28日には全米に12ある女性開拓者の像「マドンナ・オブ・ザ・トレイル」のひとつが建てられ[8]、現在も40号線近くのグレン・ミラー公園の隅に置かれている。

リッチモンドは歌劇団と交響楽団が拠点を置いていた全米で最も小さいコミュニティといわれる。ホワイトウォーター歌劇団は活動を休止しているが、リッチモンド交響楽団は現在も活動しており街の誇りになっている。1899年には全米初のハイスクール学生のみの楽団がウィル・ハートによって結成され、責任者のジョゼフ・E・マディはミシガン州に現在のインターロッケン芸術センターを開設した。

19世紀後半から20世紀初頭にかけてはジョン・エルウッド・バンディ、チャールズ・コナー、ジョージ・ハーバート・ベイカー、モード・コフマン・エジメイヤー、ジョン・アルバート・シーフォードなどの印象派の画家が集うようになり、彼らはリッチモンド派と呼ばれた。市内のリッチモンド美術館は地元とアメリカの美術作品を多く所蔵しているが[9]、その目玉はインディアナ州出身のウィリアム・メリット・チェイスの自画像である[10]

こうした芸術は製造業を中心とした強固な経済基盤に支えられたものであった。19世紀後半から20世紀中葉にかけては芝刈り機生産の拠点が置かれたため「芝刈り機のメッカ」とも呼ばれた。この地域の事業者では、デイビス、モートーモーワー、ディル=マグワイア、F&Nなどが大手だった。また、農機製造のガアー=スコット社はリッチモンドを拠点にしていた。

20世紀初頭にはスクールバスの先駆けである「キッド・ハック」を開発した馬車業者のウェイン・アグリカルチュアル・ワークスが近くのユニオンシティから移転してきた。このほかにも1930年代から40年代にかけてリッチモンドには自動車デザイナーや生産者が数社あった。1950年代にウェイン・ワークスはウェイン・コーポレーションに改称され、その時にはバスとスクールバスの生産企業として知られていた。1967年には事業所を州間高速道路70号線沿いに移転した。同社はスクールバスの安全の技術革新のリーダーになったが、スクールバス業界の統廃合が進んだ1992年に解散された。

1968年4月6日に商業地区でリッチモンド爆発と呼ばれる天然ガスの爆発・火災事故が起こり、数ブロックが焼き払われ41人が死亡、150人以上が負傷した[11]。この事故を題材に「Death in a Sunny Street」(サニー通りの死)という本が発売された。市はその後しばらく商業地区を通るメインストリートを封鎖し、1972年に遊歩道を完成させ、1978年には遊歩道を拡張した。車両通行が再開されたのは1997年になってからで、それも都市再生の取り組みの一環としてだった。

かつてヒルズ・ローズ社によって多種多様なバラが生産されていたことから、リッチモンドは「バラの街」として知られている。この企業は計14万平方メートルもの温室を所有していた。毎年夏にはこの地のバラ産業を尊びリッチモンドバラフェスティバルが開催され、人々でにぎわう。
KKK

クー・クラックス・クラン(KKK)が復活した1920年代、インディアナ州はD・C・ステファンソンやウォルター・F・ボッサートなどの主導によって全米でもKKK色の強い州になった。当時のエドワード・L・ジャクソン州知事も会員だったほどである[12]


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