リック・フレアー
コミコン『GalaxyCon』にて(2023年)
プロフィール
リングネームリック・フレアー
ブラック・スコーピオン
本名リチャード・モーガン・フレイアー
ニックネームネイチャー・ボーイ
狂乱の貴公子
身長183cm - 185cm
体重100kg - 110kg
誕生日 (1949-02-25) 1949年2月25日(75歳)
出身地 アメリカ合衆国
テネシー州
シェルビー郡メンフィス
スポーツ歴レスリング
アメリカンフットボール
トレーナーバーン・ガニア
ビル・ロビンソン
デビュー1972年12月10日
引退2012年12月3日
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リック・フレアー(Ric Flair、本名:Richard Morgan Fliehr、1949年2月25日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州メンフィス出身。ニックネームはネイチャー・ボーイ(Nature Boy)、略して「ネイチ」と愛称で呼ばれることもある。
その試合巧者ぶりから「業界一卑劣な男(Dirtiest Player in the Game)」の異名を取った。日本でのニックネームは「狂乱の貴公子」。息子のデビッド・フレアーとリード・フレアー、娘のアシュリー・フレアーもプロレスラー[1]。 NWA、WCW、WWEの世界ヘビー級王座のベルトを巻き、16回の世界王者(16-time World Champion)とも呼ばれる。 歴代のNWA王者がそうであったように、正攻法で攻めるよりもずるがしこい戦法を得意とした。これは元々NWA王者が巡業の行く先々で地元の英雄を相手にする必要があったところから生じたものであり、対戦相手を引き立てつつ、数々のムーブ(試合中の動作)で観客を沸かせる術に長け、「箒相手でもプロレスができる」と形容された。跪いて相手に許しを乞う、攻撃を受けてフラフラ歩いてから前方に倒れる、コーナーポストに登って相手にデッドリー・ドライブで投げられる、などのムーブは大きな見せ場となった。そのスタイルは数々のレスラーに賞賛され、武藤敬司は「自身のプロレスのベース」と語っている。 なお、彼の地髪は元々赤っぽいブラウンで、ブロンドヘアーは貴公子ムードを出すためと、ラフファイトの際に流血が映えるよう、自ら染めたものである。 1950年に発覚して全米を騒がせた、ジョージア・タン(Georgia Tann
人物
来歴
初期
少年時代からプロレスファンで、地元ミネアポリスを拠点とするAWAの試合に夢中になり、特にクラッシャー・リソワスキーが好きだったと語っている[4]。学生時代はレスリングおよびアメリカンフットボールの選手であった。ミネソタ大学を退学後、保険外交員の職に就いていたが、AWAの総帥バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加してプロレスラーとなるための訓練を受ける。このキャンプの同期にはケン・パテラ、コシロ・バジリ、グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼルらがいる[5]。1972年12月10日、ウィスコンシン州ライスレイクにおけるAWAの興行にてデビュー戦を行った[6]。
NWAポール・ジョーンズと対戦するフレアー(1979年)
1974年、ジム・クロケット・ジュニアが運営するNWAミッドアトランティック地区(本拠地はノースカロライナ州シャーロット)に活動の場を移す。金髪ヒールの先達であるベテランのリップ・ホークのパートナーに起用され[7]、同年7月4日にミッドアトランティック・タッグ王座を獲得、プロ入りして初のタイトル戴冠を果たした[8][9]。