リッキー・ヘンダーソン
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リッキー・ヘンダーソン
Rickey Henderson
2009年8月1日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地イリノイ州シカゴ
生年月日 (1958-12-25) 1958年12月25日(65歳)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席左投右打
ポジション外野手
プロ入り1976年 ドラフト4巡目
初出場1979年6月24日
最終出場2003年9月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


オークランド・アスレチックス (1979 - 1984)

ニューヨーク・ヤンキース (1985 - 1989)

オークランド・アスレチックス (1989 - 1993)

トロント・ブルージェイズ (1993)

オークランド・アスレチックス (1994 - 1995)

サンディエゴ・パドレス (1996 - 1997)

アナハイム・エンゼルス (1997)

オークランド・アスレチックス (1998)

ニューヨーク・メッツ (1999 - 2000)

シアトル・マリナーズ (2000)

サンディエゴ・パドレス (2001)

ボストン・レッドソックス (2002)

ロサンゼルス・ドジャース (2003)

ニューアーク・ベアーズ (2003 - 2004)

サンディエゴ・サーフドーグス (2005)

コーチ歴


ニューヨーク・メッツ (2006 - 2007)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2009年
得票率94.80%
選出方法全米野球記者協会選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

リッキー・ヘンリー・ヘンダーソン(Rickey Henley Henderson, 1958年12月25日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴの元プロ野球選手外野手)。左投右打。

他の追随をまったく寄せ付けない盗塁数、先頭打者としての出塁率の高さなどは評価が高く、しばしば「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」「盗塁男(Man of Steal)」と呼ばれる。
経歴

1958年のクリスマスイリノイ州シカゴで病院へ行く途中の車の後部座席で生まれ、ミュージシャンのリッキー・ネルソンにちなんでリッキー・ネルソン・ヘンリーと名付けられた。2歳の時に父が家を離れ、7歳の時に残された家族とカリフォルニア州オークランドへ引越した。12歳の時に父が自動車事故で死亡し、母はポール・ヘンダーソンという男性と再婚。名前がリッキー・ヘンリー・ヘンダーソンとなった。

左投げだったものの右打ちで練習し「左投右打」という珍しい選手となった(メジャー通算4000打数以上の選手では、ヘンダーソン以外に2人しかいない)。

高校時代には野球以外にバスケットボールアメリカンフットボールもプレーし、特にアメフトではRBとして活躍し全米代表にも選ばれた。アメフトで24もの奨学金の申し出を受けたが全て断った。

1976年オークランド・アスレチックスからドラフト4巡目(全体96位)指名を受け入団。3年間マイナーリーグでプレーし、1977年にはマイナーリーグタイ記録の1試合7盗塁を記録。

そして1979年6月24日に「1番・左翼手」でメジャーデビューを果たし、メジャー初打席で二塁打。第2打席で単打を打ち、初盗塁を決めた。ルーキーイヤーはリーグ7位の33盗塁を記録した。

翌シーズン、アメリカンリーグ新記録となる100盗塁で盗塁王を獲得して以降、1980年から1986年にかけて7年連続盗塁王に輝いた。

特に1982年には現在もMLB記録として残る130盗塁という大記録を達成。

1991年5月1日にそれまでのMLBの通算盗塁記録であったルー・ブロックの938盗塁を破る939盗塁を記録。

1993年福本豊の盗塁世界記録を破る1066盗塁を記録。

1979年から2003年までの25シーズンでMLB9球団でプレーし、MLB歴代1位の通算1406盗塁を記録した。2004年独立リーグアトランティックリーグニューアーク・ベアーズで、2005年は独立リーグゴールデンベースボールリーグのサンディエゴ・サーフドーグスでプレーした。

2006年からメッツの特別インストラクターを務め、2007年7月13日にメッツの一塁コーチをしていたハワード・ジョンソンの打撃コーチ転身に伴い、一塁コーチとなった。

2007年5月にロジャー・クレメンスの復帰宣言を聞いてメジャー復帰に向けて動き出すことを宣言したこともあるが、復帰には至らぬまま、引退後5年が経過した2009年野球殿堂入り資格を得ると、539票中511票(94.8%)の得票を得て初年度での殿堂入りを果たした。この時点で正式に現役引退を表明したという。ヘンダーソンのアスレチックス在籍時の背番号「24」。
オークランド・アスレチックスの永久欠番2009年指定。

2009年7月9日、ヘンダーソンのオークランド・アスレチックス在籍時の背番号『24』が永久欠番となった。

2017年2月6日、アスレチックスの本拠地「オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム」のフィールドが「リッキー・ヘンダーソン・フィールド」に改称されることが発表された。また、球団社長特別補佐に就任することも合わせて発表された[1]

2019年のアスレチックス-マリナーズの日本開幕戦で来日し、始球式では佐々木主浩-城島健司のバッテリー相手にヘンダーソンが打席に立った[2]
人物
少女ファン、エリンとの交流

ヘンダーソンから「ナンバーワン・ファン」と認められた白人少女、エリン・ステーツが球場で観戦を開始したのは彼女が5歳の時、1989年だった。この年の6月22日に両親がオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムの左翼席のシーズン席を購入してエリンを初めてMLBの試合に連れて行った。その日はちょうどヘンダーソンがヤンキースからトレードされて、古巣のアスレチックスに復帰した日でもあった。左翼手として守備位置につくヘンダーソンに「ハーイ、リッキー」と声を張り上げたが、彼の耳には届かなかった。そこで次に観戦した時にチームカラーの黄色のボードに「ハーイ、リッキー」と書き込んで高く掲げた。これはヘンダーソンの目にとまり、守備位置につくたびに手を振り、試合終了後にはボールまでプレゼントした。


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