リチャード2世
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ウィリアム・シェイクスピアの史劇については「リチャード二世 (シェイクスピア)」をご覧ください。

リチャード2世
Richard II
イングランド国王
リチャード2世
在位1377年6月22日 - 1399年9月29日
戴冠式1377年7月16日

出生1367年1月6日[1]
アキテーヌボルドー
死去1400年2月14日[2](満33歳没)
イングランド王国ウェスト・ヨークシャー、ポンテフラクト城(英語版)
埋葬1400年3月6日
イングランド王国ハートフォードシャー、キングス・ラングリー修道院(英語版)
1413年12月
イングランド王国、ロンドン、ウェストミンスター寺院へ改葬
配偶者アン・オブ・ボヘミア
 イザベラ・オブ・ヴァロワ
家名プランタジネット家
王朝プランタジネット朝
父親エドワード黒太子
母親ジョーン・オブ・ケント
サイン
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リチャード2世(Richard II, 1367年1月6日 - 1400年2月14日)は、プランタジネット朝最後のイングランド王(在位:1377年6月22日 - 1399年9月29日)。父はイングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの長男エドワード黒太子、母はその妃ジョーン・オブ・ケント

幼少で即位したため治世初期は貴族たちの補佐を受け、成長してからは専制のため側近を重用したことが周囲の反発を招き、1388年に反対派の訴追派貴族たちに側近たちを非情議会に訴追されて失い、一度挫折した。1397年に訴追派貴族を排除して再び専制に乗り出したことが一層の反感を買い、従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)ら貴族層のクーデターによって王位から追放・幽閉された末に死去、プランタジネット朝は断絶した。
生涯
幼少期の統治リチャード2世の戴冠式(15世紀の作品)

1367年、エドワード黒太子とジョーン・オブ・ケント夫妻の間に次男としてボルドーにおいて誕生。出生地からリチャード・オブ・ボルドーと呼ばれた。兄エドワードが1372年に7歳で、続いて1376年に父が死去したため祖父からコーンウォール公に叙されると共に後嗣に指名された。そして翌1377年6月21日に祖父も死去すると10歳で王位を継承した。

黒太子には4人の弟がいたが、クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープは若死、残った3人の弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントケンブリッジ伯(後にヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーエセックス伯(後にグロスター公トマス・オブ・ウッドストックが摂政候補に挙げられたが[注釈 1]、誰も決まらず貴族たちによる集団指導体制でリチャード2世を補佐することに決定、評議会がその役目を担ったが、筆頭に選ばれたランカスター公の発言権が強かった。リチャード2世の治世はこの3人の叔父たちの動向に大きく左右されていくことになる[4]王と交渉中に斬殺されるワット・タイラー(15世紀の作品)

1378年1380年に新政権は百年戦争フランスに奪われた占領地域の奪還を図り大陸へ遠征したが、全く成果が上がらなかった。この遠征による膨大な戦費調達のため人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起こすと、ランカスター公の屋敷が焼き払われ、政府の幹部だった財務府長官ロバート・ヘイルズと尚書部長官サイモン・サドベリーの2名が殺害され、反乱軍がロンドンへ迫る展開になったが、リチャード2世はタイラーとの面会に応じた。6月14日にリチャード2世はタイラーの要求事項に回答を約束したが、翌15日ロンドン市長が面会に現れたタイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱[注釈 2]。自ら危機を乗り切ったリチャード2世は自信をつけて親政を手掛けたが、それは貴族の反感を買うことになっていく[6]
専制政治とその挫折

1383年に親政を開始したリチャード2世は、側近のマイケル・ド・ラ・ポールオックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらを重用、ド・ラ・ポールをサフォーク伯に(1385年)、オックスフォード伯をアイルランド公に叙爵した(1386年)。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。さらに2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。

しかし外交は失敗が重なり、フランドルの都市ヘントで反乱を起こしたフィリップ・ヴァン・アルテベルデ(英語版)はイングランドの支援を求めたが、1382年ローゼベーケの戦いでフランス軍に討ち取られ、出遅れる形で翌1383年に出兵したイングランド軍も成果が無いまま撤退、金の無駄遣いに終わった。のみならず、スコットランドとフランスが手を組みイングランドへ逆侵攻する恐れが生じたため、1385年にリチャード2世はスコットランドへ遠征したが、敵側が焦土作戦を取ったためこの遠征も戦果を挙げられず、引き上げざるを得なかった。外交の失敗に加え、リチャード2世が寵臣たちに気前よく爵位や土地、財産などをばらまき、彼らを中心とした専制政治で議会や貴族を無視する態度を取ったため不満が高まっていった。ラドコット・ブリッジの戦いで敗走するアイルランド公ロバート・ド・ヴィアー(15世紀の作品)ランカスター公にアキテーヌ公位を与えるリチャード2世(15世紀の作品)

ランカスター公は両者の調停に尽力していたが、1386年7月に妻コンスタンスの王位継承権を盾にカスティーリャへ遠征すると、貴族たちが国王批判を展開した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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