リチャード・ロジャース_(作曲家)
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リチャード・ロジャース
Richard Rodgers
セント・ジェームズ劇場にて(1948年)
基本情報
出生名Richard Charles Rodgers
生誕 (1902-06-28) 1902年6月28日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズ区
死没 (1979-12-30) 1979年12月30日(77歳没)
ジャンルミュージカル

リチャード・チャールズ・ロジャース(Richard Charles Rodgers, 1902年6月28日 - 1979年12月30日)は、アメリカ合衆国作曲家。ミュージカルの作曲で広く知られる。ブロードウェイ・ミュージカル43作品、「900曲以上を作曲」しており、20世紀のアメリカの作曲家の中でも有名な1人に数えられ、彼の楽曲はポピュラー音楽の発展に貢献した。なお、R&Bシンガーのリチャード・ロジャースとは、同名異人である[1]。代表曲には「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」「10番街の殺人」「魅惑の宵」「ザ・サウンド・オブ・ミュージック」「ドレミの歌」など、多くの楽曲がある。
概要

1919年から1943年、作詞家ロレンツ・ハートと、1943年から1959年、作詞家オスカー・ハマースタイン2世ソングライティング・コンビで数多くのミュージカル曲を作詞作曲した。1920年代から1930年代にかけてロジャース&ハートは『Pal Joey』、『コネチカット・ヤンキー』、『On Your Toes』、『Babes in Arms』など多くのミュージカルの作曲を行なった。1940年代から1950年代にかけてロジャース&ハマースタインは『オクラホマ!』、『フラワー・ドラム・ソング (ミュージカル)(英語版)』、『回転木馬』、『南太平洋』、『王様と私』、『サウンド・オブ・ミュージック』などのミュージカルの作曲を行なった。特にハマースタインとのコラボレーションは、それまで単なるエンターテイメントとされていたミュージカルを、登場人物やドラマに焦点を当てた物語に変化させた。

ロジャースはアメリカのエンターテイメント業界の最大の賞である舞台のトニー賞、映画のアカデミー賞、音楽のグラミー賞、テレビのエミー賞全てを受賞した最初の人物であり、その頭文字を採ったEGOTの称号を与えられた[2]。さらにピュリツァー賞を受賞し、5賞すべて受賞したのは、ロジャースとマーヴィン・ハムリッシュの2人しかいない[3]。1978年、芸術における特別功労賞として第1回ケネディ・センター名誉賞を受賞した[4]
人物
生い立ちおよび教育1920年、コロンビア大学で開催されたバラエティ・ショーでの『Fly With Me』のポスター。音楽はロジャースとロレンツ・ハートにより作曲され、オスカー・ハマースタイン2世の曲も使用された。ロジャース&ハートの第1作目とされている[5]

ニューヨーククイーンズ区ロシア系ユダヤ人外科医の父ウィリアム・エイブラハムズ・ロジャースと母メイミー(リーヴァイ)の家庭に生まれた(ロジャーズというWASP風の苗字は、父親がロガジンスキーというユダヤ的な苗字から改姓したもの)。6歳の頃にピアノを弾き始めた。PS 166、Townsend Harris Hall Prep School、DeWitt Clinton High Schoolに通学した。10代前半、毎年夏にメイン州ウォーターフォードで行なわれたキャンプ・ウィグワムに参加し、そこで初めて作曲した[6]

ロジャース、ロレンツ・ハートオスカー・ハマースタイン2世コロンビア大学の同窓生であった。コロンビア大学にてロジャースはフラタニティPi Lambda Phiに所属した。1921年、音楽芸術研究所(現ジュリアード音楽院)に転籍した[7]ヴィクター・ハーバートジェローム・カーンなどの作曲家、そして子供の頃に両親にブロードウェイオペレッタを観に連れていってもらったことがロジャースの作曲に影響を与えた。
キャリア
ロジャース&ハート詳細は「ロジャース&ハート」を参照1936年、左よりリチャード・ロジャース、ロレンツ・ハート

1919年、ロジャースは兄の友人フィリップ・レヴィットの紹介でロレンツ・ハートと出会った。最初の数年はアマチュアの公演でミュージカル・コメディの作曲をしていたがなかなか芽が出なかった。1919年のブロードウェイ・ミュージカル・コメディ『A Lonely Romeo』の楽曲「Any Old Place With You」でプロ・デビューした。1920年、シグマンド・ロンバーグによる楽曲も使用された『Poor Little Ritz Girl』で初めてプロの作品の制作に携わった。次のプロ公演『The Melody Man』は1924年まで開幕されなかった。

大学卒業直後、ルー・フィールズの音楽監督として活動した。ノラ・ベイズ、フレッド・アレンなどが出演していた[8]。ロジャースはショー・ビジネスを完全に辞めて子供用下着販売業に就こうとしたが、1925年にロジャース&ハートはようやくブレイクした。高名なシアター・ギルドのチャリティ・ショー『The Garrick Gaieties』のために作曲し、批評家たちはその新鮮さと爽快さを評価した。1日のみの上演であったが、ギルドはその品質により再演に同意した。この公演で最も注目されたのは楽曲「Manhattan」であった。以降2人はブロードウェイの有力作詞作曲家となった。

次の10年間、2人は『Dearest Enemy』(1925)、『The Girl Friend』(1926)、『Peggy-Ann』(1926)、『コネチカット・ヤンキー』(1927)、『Present Arms』(1928)などブロードウェイやウェスト・エンドの双方で公演をヒットさせた。彼らの1920年代の公演は「Here In My Arms」、「Mountain Greenery」、「ブルー・ムーン」、「My Heart Stood Still」、「You Took Advantage of Me」などのスタンダード・ナンバーを生み出した。

1930年代前半、世界恐慌が本格化し、より良い環境をハリウッドに求めた。意欲的なロジャースはこのやや閑散とした時期をのちに後悔していたが、実際はハートと共に『今晩は愛して頂戴ナ(英語版)』(1932)を手掛け、「Lover」、「Mimi」、「Isn't It Romantic?」というスタンダード・ナンバーを作り上げた。なお、この映画の監督ルーベン・マムーリアンはのちにロジャースのブロードウェイ・ミュージカル『オクラホマ!』の演出を務めた。以前にハートが作詞してカットされていた3曲を作曲したが、レコーディングもヒットもしなかった。4曲目の歌詞を作曲した「ブルー・ムーン」は2人の最大のヒット曲の1つとなった。映画作品は他にジョージ・M・コウアン主演の『お化け大統領(英語版)』(1932)、アル・ジョルソン主演の『Hallelujah, I'm a Bum』(1933)、2人がハリウッドを離れた後に急遽戻ることとなったビング・クロスビーとW・C・フィールズ主演の『ミシシッピ (映画)(英語版)』(1935)などがある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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