リチャード・モントゴメリー
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リチャード・モントゴメリー
Richard Montgomery
リチャード・モントゴメリー
生誕1738年12月2日
アイルランド王国
ダブリン県ソーズ
死没1775年12月31日(37歳没)
ケベック植民地ケベック
所属組織 イギリス
 アメリカ
軍歴

イギリス軍(1756年-1772年)
七年戦争

ルイブール要塞包囲戦[1]

タイコンデロガの戦い

マルティニーク遠征

キューバ遠征

ポンティアック戦争
大陸軍(1775年)
アメリカ独立戦争

カナダ侵攻作戦

セントジョンズ砦包囲戦

ケベックの戦い (1775年) 


最終階級少将(大陸軍)
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リチャード・モントゴメリーの署名

リチャード・モントゴメリー(: Richard Montgomery、1738年12月2日 - 1775年12月31日)は、アイルランド生まれの軍人で、イギリス陸軍に仕えた。アメリカ独立戦争の際に、大陸軍准将となり、1775年に失敗に終わったカナダ侵攻作戦を率いたことで知られている。

モントゴメリーはアイルランドに生まれ育った。1754年ダブリントリニティ・カレッジに入学し、その2年後にはイギリス軍に入隊してフレンチ・インディアン戦争に参戦した。北アメリカで、続いてカリブ海で勤務し、順調に階級を上げた。フレンチ・インディアン戦争が終わった後のポンティアック戦争ではデトロイト砦に駐屯し、その後健康上の理由でイギリスに帰国した。1773年、モントゴメリーはアメリカに戻り、ジャネット・リビングストンと結婚して、農場経営を始めた。

アメリカ独立戦争が始まると、アメリカ独立支持側に付き、1775年5月にはニューヨーク植民地会議の代議員に選出された。1775年6月、大陸軍の准将に任官された。フィリップ・スカイラー将軍の病気が重くなってカナダ侵攻を率いられなくなったときに、モントゴメリーがその指揮を引き継いだ。同年11月にはセントジョンズ砦とモントリオール市を占領し、その後ケベック市まで進軍して、ベネディクト・アーノルド率いる別働隊と合流した。12月31日、ケベック市への攻撃を指揮したが(ケベックの戦い)、戦闘中に戦死した。イギリス軍がその遺骸を見つけて軍葬の礼に付した。遺骸は1818年ニューヨーク市に移葬された。
初期の経歴

モントゴメリーは、アイルランドのダブリン県フィンガル市)ソーズで、元イギリス軍士官でアイルランド議会代議員であったトマス・モントゴメリー(1700年-1761年)[2]とメアリー・フランクリン・モントゴメリー夫妻の息子として生まれた。兄にはアレクサンダー・モントゴメリー大佐(1720年-1800年)、従兄にはアレクサンダー・モントゴメリー大佐(1686年-1729年)がおり、どちらもドニゴール県の代表として代議員を務めた。別の従兄でやはりアレクサンダー・モントゴメリー将軍(1721年-1785年)はモナハン県の代表として代議員を務めた。

モントゴメリーは子供時代の大半をドニゴールで過ごし、狩猟、乗馬、射撃およびフェンシングを習った[2]。父のトマスがモントゴメリーに十分な教育を受けるように仕向けたので、フランス語ラテン語および修辞学を学び、ベルファスト郊外の学校に通った[3]。北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まった1754年に、モントゴメリーはダブリンのトリニティ・カレッジに入学した。

モントゴメリーは知識を大いに愛したが、学位は受けなかった[4]。父や兄のアレクサンダーから促されて、1756年9月21日にイギリス陸軍に入隊した[5]。父が少尉の任官を買い与え、第17歩兵連隊勤務となった[5]
七年戦争詳細は「七年戦争」を参照ジェフリー・アマースト将軍、ルイブール要塞包囲戦後にモントゴメリーを中尉に昇進させた
北アメリカ

1757年2月3日、第17歩兵連隊はそのゴールウェイ守備隊任務から海外派遣の準備をするよう命じられた[6]。5月5日にモントゴメリーと第17歩兵連隊はコークを出港してノバスコシアハリファックスに向かい、7月に到着した[7]。イギリス軍はルイブール攻略の作戦を立てたが、その実行は延期され、冬季宿営のためにニューヨーク植民地に向かった[7]。1758年、第17歩兵連隊はハリファックスに戻され、再度ルイブールの攻略を目指した[6]

イギリス軍の指揮官ジェフリー・アマーストジェームズ・アバークロンビーは、ハリファックスの北、ケープ・ブレトン島大西洋岸に位置するルイブールに駐屯するフランス軍を攻撃する作戦を立てた[8]。フランス軍守備隊はわずか800名であり、イギリス軍は13,142名の勢力に23隻の戦列艦と13隻のフリゲート艦の支援があった。1758年6月8日、砦への攻撃が始まった。モントゴメリーは激しい砲火の下を海浜に上陸し、その部隊に銃剣を固定して前進を命じた[9]。外に出ていたフランス兵は砦の方向に後退した。モントゴメリーの部隊と他のイギリス部隊は砦の大砲の射程範囲の直ぐ外側までフランス兵を追った[9]。この時点でイギリス軍は砦の包囲戦に移った。悪天候が続き、包囲戦のために必要な大砲など軍需物資の到着までに数週間を要した[10]。モントゴメリーは兵士達に塹壕を掘らせ胸壁を作らせて、フランス軍からの攻撃の可能性に備えて警戒するように命令もした[9]。7月9日、フランス軍が砦からの脱出を試みたが失敗した。7月26日、一連の戦闘でフランス海軍の艦隊の大半が破壊されることになり、砦のフランス軍は降伏した[11]


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