リチャード・ホルブルック
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リチャード・ホルブルックRichard Holbrooke

生年月日1941年4月24日
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨークマンハッタン
没年月日 (2010-12-13) 2010年12月13日(69歳没)
死没地 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
出身校ブラウン大学
所属政党民主党
アフガニスタン・パキスタン担当特使(特別代表)
在任期間2009年1月22日 - 2010年12月13日
元首バラク・オバマ
第22代 アメリカ合衆国国連大使
在任期間1999年8月25日 - 2001年1月20日
元首ビル・クリントン
アメリカ合衆国国務次官補
(ヨーロッパ・カナダ担当)
在任期間1994年9月13日 - 1996年2月21日
元首ビル・クリントン
在ドイツアメリカ合衆国大使
在任期間1993年10月19日 - 1994年9月12日
元首ビル・クリントン
第14代 アメリカ合衆国国務次官補
(東アジア・太平洋担当)

在任期間1977年3月31日 - 1981年1月13日
元首ジミー・カーター
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リチャード・チャールズ・アルバート・ホルブルック(英語: Richard Charles Albert Holbrooke, 1941年4月24日 ? 2010年12月13日)は、アメリカ合衆国外交官ユダヤ系アメリカ人である。また、外交官以外にも文筆家実業家投資家などとしての顔も併せ持つ。

1962年国務省に入省して以来一貫して外交畑を渡り歩き、ジミー・カーター政権下で東アジア・太平洋担当国務次官補1977年3月31日 ? 1981年1月13日)、ビル・クリントン政権下でドイツ駐在大使1993年10月19日 ? 1994年9月12日)、ヨーロッパ・カナダ担当国務次官補(1994年9月13日 ? 1996年2月21日)、国連大使1999年8月25日 ? 2001年1月20日)などの主要外交ポストを歴任した。特にヨーロッパ・カナダ担当国務次官補在任中には、バルカン半島問題(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争)の和平交渉で主導的な役割を担い、1995年デイトン合意成立の立役者の1人として知られる[1][2]

2009年1月20日に発足したバラク・オバマ政権では、アフガニスタンパキスタン問題担当特使(特別代表)に任命され、長期化するアフガニスタン紛争に関連する外交問題に携わったが、2010年12月13日、特使在任のまま病気のため死去した。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
生涯
生い立ち・大学卒業まで

1941年4月24日、ニューヨーク市マンハッタンで、医師のダン・ホルブルックとその妻で陶芸家のトゥルーディ・ケアル(旧姓:ムース)の間に2人兄弟の長男として生まれた[3][4]

両親は共にユダヤ人移民であり、父親のダンはワルシャワでロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、1930年代にアメリカへ移民した際に「ホルブルック」の姓を名乗るようになった。また、母のトゥルーディは元々ハンブルク在住だったが、1933年ブエノスアイレスに一家で亡命し、その後ニューヨークへやって来た人物である。彼らはユダヤ人ではあったが、無神論者だったためリチャードにユダヤ式の教育を施すことはせず、母のトゥルーディは毎週日曜日にはクエーカー教徒の集会に彼を連れて行ったという[5]

15歳の時、父・ダンがのために死去したが学業を続け[3]、スカースデール(英語版)公立高校を卒業後[4]奨学金(授業料全額免除)を得てブラウン大学に入学、1962年学士号を取得・卒業した[2][4][6]。スカースデール高校時代には、学内新聞『マルーン』のスポーツ欄の編集を担当していたという[7]。この時『マルーン』の編集長を務めていたのがディーン・ラスクの息子であるデイヴィッド・ラスクであり、なおかつホルブルックはデイヴィッドと親友であったことから、これが縁で彼の父親とも知り合うこととなった[3][8]。ディーン・ラスクはその後ジョン・F・ケネディ政権とジョンソン政権で国務長官を務めることになるが、彼はホルブルックの将来に大きな影響を与えることとなった。
ベトナム問題との関わり

大学卒業後まもなく国務省に入省し[2][9]、入省後は1年間のベトナム語研修を受けた後、ベトナム問題に携わるようになる。これ以降、現地赴任も含め通算で6年間にわたってベトナム問題に取り組んだ。国務省入りしたのは、当時の大統領であるケネディ大統領に触発され、「政府で公職に就いて働くことこそ、我々にできる最良のことだ」と考えるようになったことと[10]、ディーン・ラスクから「外交官は、どんな仕事よりも価値がある職業だ」と聞かされていたことがきっかけである[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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