リチャード・ペティ(Richard Lee Petty、1937年7月2日 - )は、元レーシングドライバーで、NASCARの最高峰シリーズである"ストリクトリーストック(Strictly Stock)"、"グランドナショナル(Grand National)"、"ウィンストンカップ(Winston Cup)"の各シリーズ(いずれも後のスプリントカップシリーズ)で活動した。 ペティは「キング」の愛称で知られ、NASCARで最多記録となる7度のチャンピオンを獲得し(後にデイル・アーンハート、ジミー・ジョンソンが並んだ[1])、キャリア通算で200勝を記録した[1]。デイトナ500でも最多記録となる7勝を挙げ[1]、年間優勝数でも最多記録となる27勝(10連勝を含む)を1967年に記録した[1][2]。ペティは通算1,185レースに出走し、ポールポジションの最多記録(127回)を持ち、712回のトップ10フィニッシュを記録した。また、1971年から1989年に掛けて513レースの連続出走を記録した。 ペティは二世ドライバーである。父リー・ペティ
人物
ペティは、NASCARドライバーの父リー、母エリザベスの子としてノースカロライナのレベルクロスに生まれた[3]。ペティは1958年7月18日に、21歳と16日でNASCARデビューを果たした。トロントのExposition Speedwayで開催されたレースで初戦を迎えたペティは、オールズモビルをドライブして全100周のうち55周を走行し、17位でフィニッシュした[4]。1959年、ペティは6度のトップ5フィニッシュを含めて9度のトップ10フィニッシュを果たし、NASCARルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。 1960年、ペティはグランドナショナルクラスで3勝を挙げ、ドライバーズランキングで2位となった。1964年には新しいヘミエンジンを搭載した強力なプリムスをドライブし、デイトナ500では全200周のうち184周をリードして同レースでの初優勝を飾るとともに、シーズンで9勝と114,000ドルを超える賞金を獲得し、初めてシリーズチャンピオンとなった。1966年のデイトナ500は雷雨のため198周で打ち切られたが、このレースでペティは2周遅れを挽回して優勝し、デイトナ500史上初めて2勝目を挙げたドライバーとなった。 主催者がヘミ・エンジンを禁止したことに抗議してNASCARボイコットを行ったクライスラーに同調し、ペティは1965年はドラッグレーサーとして活動した。ペティはジョージア州ダラスのSoutheastern Dragwayで開催されたレースで7人が負傷し7歳の少年1人が死亡する事故を起こし、ドラッグレースでの活動を終了した。 1967年は記録に残る年となった。この年ペティは48レースに出走し、10連勝を含む27勝を記録したペティは2度目のグランドナショナル・チャンピオンを獲得した。27勝のうちには、ペティのキャリアで唯一となるダーリントン・レースウェイのサザン500での優勝が含まれる。それまでは自身の出身地から「ランドルマン・ロケット」と呼ばれていたが、ペティはこのシーズンを圧勝すると「キング・リチャード」のあだ名で呼ばれるようになった。1969年、ペティはフォードに車両を変更した。これはペティがスーパースピードウェイではプリムスに競争力が欠けると考え、滑らかなボディのダッジ・チャージャーを使用することを望んだが、クライスラーの重役はプリムスを使い続けることに固執したためである。このシーズン、ペティは10勝を挙げポイント・ランキングで2位を獲得した。1970年にプリムスは「シャーク・ノーズ」と「ゴールポスト・ウィング」を持つスーパーバードを投入し、プリムスに戻ったペティがこの車両をドライブした。この車両は後にピクサー映画『カーズ』に登場し、ペティ自身がその声優を務めた。 1971年も記録に残る年となった。デイトナ500でペティはチームメイトのバディ・ベーカー
レースキャリア
1960年代ペティのプリムス・スーパーバード(リチャード・ペティ・ミュージアム)
1970年代1970年代にペティがドライブしたIROC車両ペティのドライブで1979年のデイトナ500に勝利した車両(デイトナUSAミュージアム)ペティの1983年のレース車両
1975年は、またも歴史の残る年となった。ペティは自身のキャリアで初めてワールド600を制し、13勝を挙げて6度目のウィンストンカップ制覇を成し遂げた。シーズン13勝は、レギュレーションの変更でレース数が減った1972年以降のNASCARでは最多勝記録である(2008年現在)。この記録は1998年にジェフ・ゴードンに並ばれたが、ペティは30レースで13勝を記録したのに対し、ゴードンは33レースに出走した。一方でウィンストン500では自らのピット作業中、出火したタイヤの消火作業を行おうとした義弟のリチャード・オーエンスが加圧水タンクの爆発に巻き込まれて即死しており、悲しみのシーズンにもなった。1976年、ペティはNASCAR史上で最も有名なゴールシーンを見せた。ペティとデビッド・ピアソンはデイトナ500で最終ラップの第4ターンまで競り合っていた。ペティはピアソンを第4ターンで抜きにかかったが、ターンの出口でペティの右リアバンパーとピアソンの左フロントバンパーが接触した。両者はスピンし、ともにホームストレッチのウォールに衝突した。ペティのマシンはゴール直前の場所に停止し、エンジンも止まった。ピアソンのマシンはホームストレッチのウォールにヒットし、他車を巻き込んだが、エンジンは止まらなかった。ピアソンはどうにかゴールラインに向けてマシンを運ぶことに成功し、インフィールドの芝生上でペティを抜き、デイトナ500の勝利を手にした。ペティは2位となった。1978年、ペティは全盛期にありながら1勝も挙げることができない奇妙さが目立つシーズンとなった。ペティは長い時間、多大な努力、強い信念を持てども1978年式のダッジ・マグナムを調整して良い成績を残すことができなかった。ペティは19戦終了時までに2度の2位を最上位に、7度のトップ5フィニッシュと苦戦した。ペティは誠実で熱心なクライスラーファンの心を裏切り、4年落ちのシボレー・モンテカルロにマシンを変更してシーズンの残りのレースに臨んだ。しかしながら、シボレーへの変更も奏功せず、1978年シーズンはついに勝利を挙げることができなかった。翌1979年のペティは前年の不振を跳ね返す活躍を見せ、5勝を挙げて7度目のチャンピオンを獲得した。そしてこれがペティにとって最後のチャンピオン獲得となった。
晩年1989年のペティ車(フェニックスにて)
ペティはデイトナ500で更に2勝を挙げた(1979年と1981年)。1979年の勝利はペティにとって46レースぶりの勝利で、デイトナ500での6勝目だった。また、スタートからゴールまで生放送された初のデイトナ500で、ゴールを巡る問題で2名のドライバーが殴り合いを演じたことでも知られるレースである。ペティは、1位と2位を走行していたドニー・アリソンとケール・ヤーボローが最終ラップにクラッシュすると、ダレル・ウォルトリップとA.J.フォイトを抑えて優勝した。デイトナ500に勝利したペティはこの1979年シーズン、ウォルトリップを抑え、自身のキャリア7度目の、そして最後のウィンストンカップチャンピオンを獲得した。
1981年シーズンに向け、NASCARは全てのチームに対し、各メーカーが1979年より準備を行っていた、110インチのホイールベースを持つ小型化した新たなマシンでレースに臨むことを指示した。ペティはそれまでシボレーとオールズモビルで成功を収めていたが、クライスラー系のマシンへの変更を望んだ。ペティのチームは美しい1981年式のダッジ・ミラーダを仕立てて1981年の1月にデイトナに持ち込みテストを行ったが、このマシンは時速186マイル (299 km)のラップを記録するに留まった。これはGMのマシンを8マイルも下回るスピードだった。ミラーダに競争力が欠けることを知ったペティは、デイトナのスーパースピードウェイでダッジを走らせることを諦め、デイトナ500に向けてビュイック・リーガルを購入した。この1981年のデイトナ500で、ペティは残り25周のところで燃料補給のみのピットストップを行い、ボビー・アリソンを出し抜いて7度目の、そして自身最後のデイトナ500制覇を成し遂げた。デイトナ500のレース後、ペティのチームには大きな変化が起き、長年にわたりペティのクルーチーフを務めたデイル・インマンがチームを去った(インマンは1984年、テリー・ラボンテのクルーチーフとして8度目のチャンピオン獲得を経験した)。
1981年シーズン、ペティは3勝を挙げたがペティ自身はこのシーズンを失敗だと感じていた。ビュイック・リーガルはハンドリングと信頼性に問題を抱えていた。