リチャード・バクスター
生誕1615年11月12日
イングランド王国、シュロップシャー、ロートン
リチャード・バクスター(英:Richard Baxter, 1615年11月12日 - 1691年12月8日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの聖職者、説教師。 幼少期・青年期は聖書に興味を持ち、イングランド国教会(監督制)への疑問を感じながらピューリタンとして成長、イングランド中部ウスターシャーの町キダーミンスター
概要
いくつかの諸派に分裂していたイングランドのプロテスタントの合同を願い、教会一致を合言葉にした牧師たちの集会(ウスターシャー・アソシエーション)を開き、ウスターシャーからイングランドへと広めていった。イングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェルとはそりが合わず、共和国へ提言した教会一致の望みも叶わなかったが、説教師としての名声は高まり思想と交友関係を深めた。王政復古時代になると説教妨害や逮捕など不遇の日々を送りながらも、住居を転々としながら妻や友人たちの援助を受けつつ、説教と執筆で晩年を過ごした。
教会一致を目指した生涯はしばしば急進派の反対と政府の弾圧に悩まされ、病気にも苦しめられたが、キダーミンスターの住民を説教と信仰問答・教会規律を通じた教育と訓練で教化(聖化)することに尽くした。著書も多数執筆、信仰・政治・社会など様々な問題を取り上げた著作を残している。 リチャード・バクスターは1615年11月12日、イングランド西部シュロップシャーの町ロートン
生涯
幼少期・青年期
一方、学校では質の低い教師がほとんどで、無知で不道徳、碌に説教もしない酔っ払いばかりだったため、まともな教育を受けられなかった。また、父が村の祭に参加せず聖書に親しんでいたことを村人たちからピューリタンと嘲られたことがあり、バクスターは俗界と聖界両方に惹かれながら、父の影響で後者に身を置いた。やがてドニントン(英語版)に設立された無料学校で本格的な教育を受け、成績は1番を取り最優秀生徒になった。ここでジョン・オウエン(同名の独立派牧師ジョン・オウエン(英語版)とは別人)と親交を結んだ。この頃ピューリタンや信仰書に接して信仰への不安に悩み、イングランド国教会に疑問を抱き始める一方、15歳になると30人の少年達と共にリッチフィールド主教(英語版)トマス・モートン(英語版)から堅信礼を受けた[* 1][4][5]。
バクスターは大学への進学を望んだが、師であるオウエンの勧めと、息子を遠出させたくない両親の願いでラドロー(英語版)へ送られ、ウェールズ辺境地域評議会(英語版)付きチャプレンのリチャード・ウィクステッド牧師の下で個人教師を受けた。しかしウィクステッドから許可された図書室の利用でバクスターは蔵書を読み漁り知識は拡充したが、ウィクステッド本人は学者として優秀ではなく、あまり学問を教えなかったため勉強にならなかった。ラドローの雰囲気も問題で、一緒に来ていた友人が酒に溺れて堕落、バクスターもトランプ・サイコロといった遊びの誘惑に駆られる寸前になった。イートン・コンスタンティンへ戻ったのも束の間、1633年に宮廷でバクスターの出世を望むウィクステッドの勧めでロンドンに出て、宮廷務めの訓練を受けるべく宮廷祝典局長(英語版)ヘンリー・ハーバート(英語版)の下で生活したが、ピューリタンの悪口が絶えない演劇三昧の宮廷も居心地が悪く、1634年に母の病気を理由にイートン・コンスタンティンへ帰郷した[6][7]。
1634年から1638年まで4年間イートン・コンスタンティンに滞在中、1635年の母の死、シュルーズベリー発祥の非国教徒グループとの出会いを経て、1638年にウスター主教(英語版)ジョン・ソーンバラ(英語版)から執事の按手を受けた。非国教徒を迫害する国教会側に問題があると感じる一方、分離派への指向がある非国教徒側にも同調しなかったが、非国教徒の接触で教会規律への関心とピューリタンを抑圧する国教会への疑問を抱いた。特にジェームズ・ベリー(英語版)と親しくなり、彼の影響でバクスターは按手を受ける決心を固め、ベリーが紹介したダドリーの製鉄業者リチャード・フォーリー(英語版)と息子のトマス・フォーリー(英語版)とは生涯に渡る親交を結んだ[* 2][10][11][12][13]。 聖職者としてのバクスターの最初の仕事は、ダドリーで設立された学校での教育だった。ここの滞在は9ヶ月と短かったが、滞在中に執事の按手を受けた、最初の公開説教が住民に好意的に受け止められた、フォーリー父子との親交など重要な出来事に遭遇した。続いて1640年にブリッジノース
キダーミンスター・軍で説教活動