この項目では、アイルランドの俳優について記述しています。その他の同名の人物については「リチャード・ハリス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
リチャード・ハリス
Richard Harris
1985年撮影
本名Richard St. John Harris
生年月日 (1930-10-01) 1930年10月1日
没年月日 (2002-10-25) 2002年10月25日(72歳没)
出生地 アイルランド自由国、リムリック
死没地 イングランド、ロンドン
身長185 cm[1]
職業俳優、映画プロデューサー、
映画監督、作家、詩人、歌手
ジャンル映画、舞台
活動期間1958年 - 2002年
配偶者Elizabeth Rees-Williams
受賞
カンヌ国際映画祭
男優賞
1963年『孤独の報酬』
ヨーロッパ映画賞
生涯貢献賞
2000年
グラミー賞
最優秀朗読アルバム賞
1974年『かもめのジョナサン』
ゴールデングローブ賞
男優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1967年『キャメロット』
その他の賞
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リチャード・ハリス(Richard Harris, 1930年10月1日 - 2002年10月25日)は、アイルランドの俳優。また、歌手としても知られ、1968年に発表した「マッカーサー・パーク」は全米2位、全英4位を記録した。
アイルランドのリムリック生まれ。息子のジェイミー・ハリスとジャレッド・ハリスも俳優になった。弟のダーモットはカサンドラ・ハリスの元夫である。姪のアナベル・ウォーリスも女優。 アイルランド自由国リムリック市のカトリック系住民であるハリス家に、9人兄弟の5人目として生まれる[2]。父はイヴァン・ジョン・ハリス、母はミルドレッド・ジョセフィン・ハーティ・ハリスと記録されている[3][4]。幼少期にイエズス会の寄宿学校に送られ、学校ではスポーツに才能を示してラグビー選手として活躍した。一時はプロチームのギャリーオーウェン・フットボール・クラブ
人物
前歴
結核治療を終えた後、次の道を模索しながら日々を過ごす中で、映像の世界に携わりたいという想いが高まり、ディレクターとしての経験を積むべく一念発起して隣国イングランドへと移住する。だが、製作過程を専門とする学校がないことを知ると、悩んだ末に少しでも関連する分野ということで演劇学校の入校試験を受けた。24歳の時に王立演劇学校(RADA)の入校試験を受けるが不合格とされ、セントラル演劇学校に至っては年齢制限を理由として門前払いされた[6]。それでも諦めずに学校を探し、やがてロンドン音楽演劇アカデミー(英語版)の入校許可を得る。アカデミーでは熱心に学び、炭鉱で働きながら稼いだ金で舞台上演を行うなど精力的に活動した。アカデミーの課程を終えると専業の舞台俳優として劇団に参加、長い下積み生活を送った。 1958年に映画デビュー。1963年の『孤独の報酬』ではカンヌ国際映画祭男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞にノミネートされるとハリウッドに進出し、憧れの存在だったカーク・ダグラスの知己を得た。そのダグラスの推薦で大作ミュージカル映画『キャメロット』に主演した。以後、知的さと男臭さを伴わせた演技で『ジャガーノート』、『カサンドラ・クロス』、『ワイルド・ギース』といったアクション映画を中心に活躍した。1980年代に入ってアルコール依存症および薬物依存症から低迷し、映画からは遠ざかるが、それを克服し、以後は舞台を中心に活動を続けた。1981年にはナイトの称号を授かった。 1990年の映画『ザ・フィールド』では、土地に執着する初老の農夫を演じ、『孤独の報酬』以来27年ぶりにアカデミー主演男優賞にノミネートされた。以後、『許されざる者』や『グラディエーター』といった作品で、主に貴重なバイプレーヤーとして再びスクリーンに登場することが増えた。 私生活では2度結婚している。1974年に映画『殺し屋ハリー/華麗なる挑戦』で共演したアン・ターケルと結婚、数本の映画で共演したが、1981年に離婚した[7][8][9]。 映画化された『ハリー・ポッター』シリーズの1作目と2作目で魔法学校の校長アルバス・ダンブルドアを演じた。2002年にホジキンリンパ腫で死去し[10]、『ハリー・ポッターと秘密の部屋』が遺作となった。
俳優デビュー後
『ハリー・ポッター』シリーズ