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出典検索?: "リチャード・ネヴィル" 第5代ソールズベリー伯
リチャード・ネヴィル
Richard Neville
第5代ソールズベリー伯
在位1429年 - 1460年
出生1400年
イングランド王国、ダラム、レビィ城
死去1460年12月31日
イングランド王国、ウェイクフィールド
埋葬 イングランド王国、ポンテフラクト → バークシャー、バーグフィールド教会
配偶者アリス・モンタキュート
子女一覧参照
家名ネヴィル家
父親初代ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル
母親ジョウン・ボーフォート
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第5代ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル(Richard Neville, 5th Earl of Salisbury, 1400年 - 1460年12月31日)は、15世紀のランカスター朝期のイングランドの貴族。
母が王室の血を引いていたことと、母方の爵位継承者が不在だったことから爵位・所領を拡大し、スコティッシュ・ボーダーズ(スコットランドとの国境地方)の警備責任者を長く務めたことで、特に北イングランドで勢力を伸ばした。しかし、ヘンリー6世の時代にノーサンバランド伯のパーシー家との対立が表面化し、これに勝利するためにヨーク公リチャードと手を組んだ。ヨーク公がヘンリー6世に反旗を翻した薔薇戦争でもヨーク派についたが、ウェイクフィールドの戦いの敗戦でヨーク公と共に処刑された。
生涯
ネヴィル家の富の蓄積と分裂リチャードが生まれたレビィ城(1819年)第5代ソールズベリー伯リチャードの紋章
1400年、ダラムのレビィ城で生まれた。リチャードはウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィルの三男(第10子)ではあったが、母で父の後妻ジョウン・ボーフォートはエドワード3世の3男ジョン・オブ・ゴーントの娘でヘンリー4世の異母妹であった。
ネヴィル家の所領は主にダラムとヨークシャーにあったが、イングランド王リチャード2世、ヘンリー4世はこの一家がスコティッシュ・ボーダーズにおけるパーシー家の勢力との均衡をはかるのに利用できると考え、1397年に父にウェストモーランド伯爵位が与えられ、さらに1403年にはスコットランドとの西部国境警備責任者(Lord Warden of the West March)に任命された。王族・貴族間の区別がいっそう重要になっていた時期であるからこそ、ラルフにとってエドワード3世の孫娘で王室の一員のジョウン・ボーフォートとの結婚はもう一つの報酬として見ることができる。 父と最初の妻の間にできた子供達は皆地方貴族と結婚したが、ジョウン・ボーフォートとの子供達はより高貴な家系と縁組した。リチャードの3人の姉妹は皆公爵と結婚し(妹セシリーはヨーク公リチャードと結婚した)、彼自身はソールズベリー伯トマス・モンタキュートの一人娘で爵位継承権を持つアリス・モンタキュートと結婚した。 リチャードとアリスが結婚した日付は分かっていないが、おそらく王妃キャサリン・オブ・ヴァロワの戴冠式に夫婦として出席した1421年2月以前のことと推定される。結婚時点では妻アリスはまだ推定相続人であり、この時点でのソールズベリー伯である義父トマスは存命であるどころか、1424年にアリス・チョーサー[1]と再婚した。しかし結局、この結婚では子供は生まれず、モンタキュート家の男系継承者の絶えた1429年にリチャードは晴れてソールズベリー伯に、アリスはソールズベリー女伯になった。こうしてリチャードは三男としては望外な所領を得た。 更に不思議なことに、本来ネヴィル家の遺産を受け継ぐはずの先妻の子(リチャードの異母兄)ジョン・ネヴィル
リチャードの結婚と妻の権利
また、リチャードの結婚は、妻の権利として妻の母方の祖父に当たるケント伯トマス・ホランドの遺産までもたらした。皮肉にも彼のソールズベリー伯の称号自体は大した富をもたらさなかったが、彼はイングランド南部のバークシャーに邸宅を構えた。 当時スコットランドとの国境は、ノーサンバーランドのベリックに本拠地を置く東部国境と、カンブリアのカーライルに本拠地を置く西部国境の、2人の警備責任者によって守られていた。14世紀まではこの両方がパーシー家から任命されていた。 ヘンリー4世の即位を支援していたパーシー家は、1399年のヘンリー4世の即位に伴って、西部国境はノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーに、東部国境はその息子のヘンリー・パーシー(ホットスパー)がそれぞれ警備責任者になった。
スコットランド国境防衛