リチャード・トレビシック
Richard Trevithick (1816)
ジョン・リネル画
生誕 (1771-04-13) 1771年4月13日
イングランド コーンウォール Tregajorran
リチャード・トレビシック(Richard Trevithick、1771年4月13日 - 1833年4月22日)は、イギリスの機械技術者で、蒸気機関車の発明者[1]。蒸気機関車の初期の開発史ではジョージ・スチーブンソンの名も知られているが、後述するように発明したのはトレビシックである。
コーンウォールの鉱山町出身で、若いころから鉱山と技術に熱中。鉱山の親方の息子で、学校での成績はよくなかったが、鉄道の歴史に先駆者として名を刻んだ。最大の貢献は世界初の高圧蒸気機関を開発したことで、さらに人間が乗れる大きさの世界初の蒸気機関車を開発した。初の軌道上を走る蒸気機関車を製作し[2]、1804年2月21日、ウェールズのマーサー・ティドビルにあるペナダレン製鉄所(英語版)で初走行させた[3][4]。
その後海外に関心を向け、ペルーで鉱山のコンサルタントを務め、コスタリカの一部を探検。浮き沈みの激しい人生で、破産したこともあり、同時代の鉱山技師や蒸気機関技師との対抗関係に苦しんだ。全盛期には鉱山技師として尊敬され有名になったが、晩年は不遇だった。2023年5月現在では、鉱業界、工学界、鉄道業界でその功績がよく知られている。
生い立ち)とレッドルース(en)の間の Tregajorran(イローガン教区(en:Illogan)内)で生まれる。6人姉弟の末っ子だが、男子は彼1人だけである。当時としては188センチと背が高く、勉強よりもスポーツが得意な子だった。カムボーンの小さな学校に通わされたが、勉強には身が入らず、ある教師は彼について「反抗的で頑固で甘やかされた少年で、頻繁に休み、非常に注意散漫」と記している。算数には才能を発揮したが、普通の手段で答えに到達することはなかった[5]。
父は鉱山の監督リチャード・トレビシック(1735年 ? 1797年)で、母アン・ティーグ(1810年没)は鉱夫の娘だった。幼いころからコーンウォールのスズや銅鉱山で、深い坑道から水を汲み上げる蒸気機関を見ている。一時期ウィリアム・マードックが近所に住んでいたことがあり、その蒸気車の実験に影響を受けた[6]。
19歳のとき鉱山で働き始める。熱心に働いたため、すぐさま若者としては珍しいコンサルタント的地位を確立した。鉱夫たちは彼の父を尊敬していたため、トレビシックも人気者となった。 1797年、ヘイル出身のジェーン・ハーヴェイと結婚。6人の子をもうけた。 妻ジェーンの父ジョン・ハーヴェイ (John Harvey
家族
リチャード・トレビシック (1798?1872)
アン・エリス (1800?1876)
エリザベス・バンフィールド (1803?1870)
ジョン・ヘンリー・トレビシック (1807?1877)
フランシス・トレビシック
フレデリック・ヘンリー・トレビシック (1816?1883)
背景
当時の蒸気機関はニューコメンが1712年に発明した負圧型または大気圧型で、一般に低圧蒸気機関と呼ばれる。ワットはマシュー・ボールトンと共にニューコメンの蒸気機関の改良に取り組み、いくつかの特許を取得。中には復水器を分離させた方式の特許もあった。
トレビシックは1797年にディンドン鉱山(英語版)の技師となり、そこで(エドワード・ブルと共に)高圧蒸気機関をいち早く採用。ワットの特許を回避するために蒸気機関に変更を加えたものを製作した。それに対してボールトン・アンド・ワット社は差止命令を出した。
また、コーンウォールのスズ鉱山でよく使われていた(ビーム式蒸気機関で駆動する)プランジャーポンプの実験も行い、プランジャーを逆転させることで水力機関になることを発見した。
高圧蒸気機関1804年ごろ製作されたトレビシックの14号蒸気機関。1885年ごろ復元され、Scientific American Supplement, Vol. XIX, No. 470(1885年1月3日)にこのイラストが掲載された。その後サイエンス・ミュージアム(ロンドン)で展示されている。
経験を積むにしたがい、ボイラー技術の進歩によって高圧蒸気機関を安全に製造できるようになってきたことを理解した。"strong steam" とも呼ばれる高圧蒸気機関を考えたのはトレビシックが最初というわけではない。ウィリアム・マードックは1784年から蒸気自動車の開発を行っており。1794年にはトレビシックに請われて実験を見せている。実際1797年から1798年にかけてマードックはレッドルースでトレビシックの近所に住んでいた。アメリカではオリバー・エバンズ(英語版)も同様の研究を行っていたが、トレビシックがそれに気づいていた証拠はない[7]。
それとは別に、グリフィン醸造所で主任技師として働いていたアーサー・ウールフ(英語版)も高圧蒸気機関の実験をしていた。1796年ごろには石炭消費量をかなり減らすことに成功している。
息子フランシスによるとトレビシックは1799年にイングランド初の高圧蒸気機関を稼働させたという。単に復水器を排除しただけでなく、シリンダーを小型化して機関を小型軽量化したという。そして小型軽量化をさらに進めていけば、貨車を牽引して動かすことも可能だと考えた。 トレビシックは(数気圧の)高圧蒸気機関の製作を開始し、当初は据え置き型で後には台車に搭載した。複動シリンダーを採用し、四方弁
初期の実験
パフィング・デヴィル号1801年のトレビシックによる蒸気自動車のデモンストレーションを記念した銘板
彼は、鉱山技師の経験を活かして蒸気機関を用いた自動車(蒸気自動車)の製作を始め、1801年には蒸気自動車を試作した。
1801年、カムボーンで人間が乗り込める蒸気自動車を公開した[8](蒸気自動車としてはニコラ=ジョゼフ・キュニョーが1770年に製作したものが最初とされる)。トレビシックはこれをパフィング・デヴィル号 (Puffing Devil) と名付け、同年のクリスマス・イヴに数名を乗り込ませて走らせることに成功した。いとこのアンドリュー・ビビアン(英語版)がこれを操縦した。これが蒸気を動力源とする交通の世界初のデモンストレーションとされている。この出来事からコーンウォールの民謡「カムボーンヒル(英語版)」が生まれた。
その後も試験を続け、3日後に道路にあった溝を通り過ぎた後で蒸気自動車が故障した。運転手は蒸気機関の火を消さずに自動車を放置し、近くのパブで飲食した。その間に内部の水が沸騰し、機関が過熱して壊れた。トレビシックはこれを重大な失敗とは考えず、むしろ運転手の過失と考えた。