リチャード・ストールマン
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「ストールマン」はこの項目へ転送されています。この人物に因み命名された小惑星については「ストールマン (小惑星)」をご覧ください。
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(2023年9月)

リチャード・ストールマン
リチャード・ストールマン(2014年)
生誕 (1953-03-16) 1953年3月16日(71歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
教育ハーバード大学MIT(1975年中退)
親ダニエル・ストールマン(父)
アリス・リップマン(母)
業績
専門分野フリーソフトウェア運動GNUEmacsGCCGPLコピーレフト
所属機関FSF理事・有議決権メンバー

リチャード・マシュー・ストールマン(Richard Matthew Stallman、1953年3月16日 - )は、アメリカ合衆国プログラマーフリーソフトウェア活動家。コピーレフトの強力な推進者として知られ、現在にいたるまでフリーソフトウェア運動において中心的な役割を果たしている。また、プログラマーとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねるソフトウェアにはEmacsGCCなどがある。なお、名前の頭文字を取って RMS と表記されることもある。
年表

1953年 - ダニエル・ストールマンとアリス・リップマンの子としてニューヨークに生まれる
[1]

1971年 - ハーバード大学に入学。Math55で好成績を残し[2]、MIT AI研のプログラマとなりハッカーコミュニティに加わる。

1974年 - 物理学の学位を取得し[3]、最優等の成績で大学を卒業。これに続いてMITの大学院に入学するが、MIT AI研でプログラマとしての活動を続けるうちに、物理学の研究をやめ、博士号をとることを放棄する。

1983年 - GNUプロジェクトを創始。

1984年 - GNUプロジェクトに専念するためMITを退職。

1985年 - GNU宣言の発表。

1990年 - グレース・ホッパー賞受賞。

1996年 - スウェーデン王立工科大学名誉博士号。

1998年 - EFFパイオニア賞[4]

1999年 - オンラインの百科事典プロジェクトGNUPedia(英語版)の開発を提唱。ユーリ・ルビンスキー記念賞受賞。

2001年 - 武田賞を受賞。グラスゴー大学名誉博士号。

2002年 - 全米技術アカデミー会員。

2007年 - パビア大学名誉博士号。

2009年 - レイクヘッド大学名誉博士号。

2019年 - CSAILFSF代表理事辞任[5]

2021年 - FSF理事復帰[6][7]



MITでの活動
大学院生として

最終的には、AI研のプログラマとなる道を選び、博士研究を断念することになるものの、ストールマンは研究者としてもいくつか重要な業績を残している。例えば、1977年には、Gerald Jay Sussman と TMS (Truth maintenance system) に関する論文を発表しており[8]、これはある種の先駆的な業績とされている。
プログラマとして

ストールマンはハーバード大学在学中から、MITのAI研にてプログラマをしていた。AI研での活動はMITの院生となってからも続き、1984年にMITの職を辞すまで続くことになる。ここでの重要な実績としては、TECOEmacsLISPマシンOSの開発が挙げられる。
ハッカー文化の旗手として

1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。

1977年、MIT CS研はパスワード制を導入し、これまで自由であった匿名アクセスを禁止する。これに対しストールマンはパスワードを解読する方法を見つけた上で、パスワードを空白文字に変更するよう促す(実質的に旧来通りの匿名アクセスを可能にできる)メッセージを付け、パスワードの入ったメッセージを各人に送りつけるという反対運動を行う。パスワード制を覆すまでには至らなかったものの、これにより全体の20%がストールマンに賛同し、パスワードを変更する。

同時期に、ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表がScribeであり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)人道に対する罪(crime against humanity)である」[9] と痛烈に批判する。

そして、1980年代に入ると、LISPマシンの開発を巡り、AI研内部がベンチャーキャピタルの融資を拒否するLMI社と融資を受け入れるSymbolics社に分裂。両社ともプロプライエタリなソフトウェアを提供していたが、ストールマンはハッカーコミュニティに親和的であった前者を支持し、1982年から1983年にかけてSymbolics社のプログラムのクローンをする作業に取り組む。
GNUプロジェクト
プロジェクトの創設

1983年9月、GNU OS計画の概要をARPANET上の複数のメーリングリストとUSENETで公表。1985年にはGNU宣言を発表し、「GNU」という名前の自由なUNIX互換OSの開発を正式に提唱する。同年10月に非営利団体のフリーソフトウェア財団を創設し、1989年にはプログラミング自由連盟を共同設立する。
プロジェクトの成果

GNUプロジェクトは、まもなくして多くの成果をもたらすことになった。実際に、1990年までに多くのGNUシステムの開発が完了し、ストールマン自身が開発に携わったものだけでもEmacsGCCGDB・gmakeといったソフトウェアが生み出されている。ただし、本来の目的であったカーネル自体の開発は遅れ、2024年現在も未だに一般的に利用できるまでに成熟していない。

さらに、このプロジェクトの中で、ソフトウェアの変更と再配布の権利を法的に保護するコピーレフトの概念が広まったことも成果の一つに数えられる。


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