リチャード・クロムウェル
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同名のアメリカの俳優については「リチャード・クロムウェル (俳優)」をご覧ください。

リチャード・クロムウェル
Richard Cromwell


イングランド共和国
護国卿
任期1658年9月3日1659年5月25日

出生1626年10月4日
イングランド王国、ハンティンドンシャー(英語版)ハンティンドン
死去 (1712-07-12) 1712年7月12日(85歳没)
グレートブリテン王国ハートフォードシャー、チェザント(英語版)
配偶者ドロシー・メジャー

リチャード・クロムウェル(Richard Cromwell, 1626年10月4日 - 1712年7月12日)は、イングランドの政治家、護国卿(在任:1658年 - 1659年)。清教徒革命の指導者で革命後にイングランド共和国の護国卿となったオリバー・クロムウェルと、エリザベス・バウチャー夫妻(5男4女あり)の三男。ヘンリー・クロムウェルの兄。
生涯

1647年5月、リンカーン法曹院に入ったが[1]、法曹院を出た後は郷里でジェントリとして暮らしていた[2]

20歳代の1654年から第一回護国卿議会でハンティンドン選挙区(英語版)選出の議員となって父を補佐し、翌1655年には貿易評議委員に任命、1657年には第二回護国卿議会のケンブリッジ大学選挙区(英語版)選出の議員[3]オックスフォード大学学長を兼任している[4]

1658年に死去した父の後を継いで第2代護国卿となったが、父ほどの器量や才能がなく、軍人としての経歴もないためニューモデル軍に背かれたことが政権を不安定にした。

1659年1月27日第三回護国卿議会を召集し支持勢力を当てにしたが、議会の共和主義勢力と組んだ軍から解散要求を出され、圧力に屈し4月22日に議会を解散した。そして5月7日に軍が共和派と結託しランプ議会を復活させた後、リチャードは政権存続を諦め就任から8ヶ月経った5月25日で護国卿辞任を余儀なくされた。父の晩年から共和政(事実上のオリバー個人独裁)は崩壊しつつあったが、若年かつ凡庸なリチャードが後を継いだことは、クロムウェル政権の崩壊をより促進させる結果となった[2][5]オリバー・クロムウェルの死とリチャードの継承に関する布告。スコットランドでの出版物、1658年。

辞任後は父の部下チャールズ・フリートウッドジョン・ランバートと議会が争ったが、やがて彼らを排除したジョージ・マンクチャールズ2世をイングランドに迎え入れ1660年王政復古を実現させると、報復を恐れて同年7月に妻子を残してフランス王国に亡命する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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