リチャード・オコーナー
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リチャード・オコーナー

渾名ディック
生誕1889年8月21日
イギリス領インド帝国
シュリーナガル
死没1981年6月17日(1981-06-17)(91歳)
イギリス
ロンドン・キング・エドワード7世病院(英語版)
所属組織 イギリス
部門 イギリス陸軍
軍歴1909年 ? 1948年
最終階級陸軍大将
認識番号936
部隊キャメロニアン (スコットランド・ライフル)(英語版)
指揮名誉砲兵中隊(英語版)、第2歩兵大隊
ペシャーワル旅団(英語版)
第7歩兵師団(英語版)
第6歩兵師団(英語版)
西方砂漠軍(英語版)
第13軍団(英語版)
エジプト駐留軍司令部(英語版)
第8軍団(英語版)
東部駐留軍司令部(英語版)
北部駐留軍司令部(英語版)
戦闘第一次世界大戦
パレスチナ独立戦争
第二次世界大戦
受賞シッスル勲章
バス勲章
殊功勲章
飾板(英語版)
武功十字章(英語版)
レジオンドヌール勲章(フランス)
1914年-1918年従軍十字章(英語版)(フランス)
武勇勲章銀章(英語版)(イタリア)
殊勲者公式報告書(英語版)への記載(計13回)
他職業スコットランド陸軍幼年部隊(英語版)司令官
キャメロニアン・スコットランド・ライフル連隊(英語版)大佐[1]
ロス・アンド・クロマーティ(英語版)統監[2]
スコットランド国教会全国集会国王代理[3]

サー・リチャード・ニュージェント・オコーナー(英語: Sir Richard Nugent O'Connor、KT, GCB, DSO1889年8月21日 - 1981年6月17日)は、イギリスの軍人。最終階級は陸軍大将。第一次世界大戦に従軍した経験を持ち、第二次世界大戦では西方砂漠軍(英語版)を指揮している。彼はコンパス作戦の野戦指揮官を務め、イタリア王国陸軍(英語版)を撃破した。この勝利はアフリカから枢軸国陣営をほぼ追い出すものであり、後にアドルフ・ヒトラーは反撃のためエルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団を送り込んでいる。オコーナーはそのロンメルによって捕虜となり、1941年4月7日から2年間イタリアの戦争捕虜収容所(英語版)で過ごした。1943年グランディ決議によりベニート・ムッソリーニが失脚すると、その年の秋に収容所から脱走している。戦線に復帰した彼は、1944年に第8軍団(英語版)の司令官を拝命、ノルマンディーの戦い、次いでマーケット・ガーデン作戦を指揮した。1945年からは英領インドの東部駐留軍司令部(英語版)の最高司令官を務めた。イギリスによるインド亜大陸支配の終結は北部駐留軍司令部(英語版)で迎えている。イギリス本国へ帰国後はロンドンで陸軍副総監(英語版)に就き、1948年に退役した。

オコーナーは大戦の功績により、2種類の騎士団で最高位の勲爵士となっている。また、殊功勲章(2度)や武功十字章(英語版)、フランスからは1914年-1918年従軍十字章(英語版)とレジオンドヌール勲章を受章している。ジョージ6世の国王付副官(英語版)となる栄誉も受けた。第一次世界大戦で9回、パレスチナ独立戦争で1回、第二次世界大戦で3回殊勲者公式報告書(英語版)に名を連ねている[4]
前半生

オコーナーは、1889年8月21日英領インドシュリーナガルに生まれた。彼の父はロイヤル・アイリッシュ・フュージリアーズ(英語版)の少佐であり、母は元インド中央州(英語版)長官の娘である[4][5]1899年よりトンブリッジ(英語版)の学校に通い、1902年にはクロウソーン(英語版)のタワーズ・スクールに入学した[6]。その翌年、父親を事故で亡くす。それを機に彼はバークシャーのウェリントン・カレッジ(英語版)に移り[7]1908年にサンドハースト王立陸軍大学(英語版)へ入学を果たした[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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