リチャード・アヴェドン
[Wikipedia|▼Menu]
リチャード・アヴェドン

リチャード・アヴェドン(Richard Avedon、1923年5月15日 - 2004年10月1日)は、アメリカ合衆国写真家。 ファッション写真およびアート写真の分野で大きな成功を収めた。
経歴
『ハーパース・バザー』でのデビュー

アヴェドンはニューヨークユダヤ系ロシア人の家に生まれた。12歳の頃にはコダック製カメラブローニーで写真を撮るようになっていた。コロンビア大学で哲学と詩を学ぶが1年で中退した後、1942年から1944年の間、軍役としてブルックリンにあったマーチャント・マリーン(United States Merchant Marine :平時には商船隊として活動するが戦時には米海軍の輸送船団の役割を果たす)の基地に勤務し、機関誌『ザ・ヘルム』(The Helm )用の写真撮影に携わった[1]

除隊後ファッション写真家を志し、まずニューヨークにあった高級女性衣料店「ボンウィット・テラー」(Bonwit Teller )に無料で広告写真を撮らせてもらえないかかけあい、エレベータ内に貼る写真を撮らせてもらうことに成功する。またボンウィット・テラーでの写真やマーチャント・マリーンでの身分証明書用写真、自らの姉妹のルイス・アヴェドンをモデルとした写真等をポートフォリオにまとめて有力ファッション雑誌『ハーパース・バザー』の編集者アレクセイ・ブロドヴィッチのもとに持ち込み、マーチャント・マリーンでの作品が認められて『ハーパーズ・バザー』誌のティーンエイジャー向けページ「ジュニア・バザー」での仕事を手に入れた。アヴェドンの同誌デビューは1944年11月号である[2]

同誌での仕事と並行してアヴェドンは、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(現在のニュースクール大学)のデザイン研究所でブロドヴィッチに写真を師事[3]

1946年には自分のスタジオを持ち、『ハーパーズ・バザー』と並ぶ有力ファッション雑誌『ヴォーグ』や、当時怪物的な販売数を誇ったグラフ誌『ライフ』でも写真を撮り始めた。
1947年のパリ滞在とディオールの「ニュールック」

1947年夏、『ハーパース・バザー』誌のカーメル・スノウパリ・コレクション(オートクチュール・コレクション)を撮影させる為、アヴェドンをパリに向かわせた。ただし同誌の1947年秋冬のパリ・オートクチュール・コレクションはすでにルイーズ・ダール=ウォルフが受注していた上、ダール=ウォルフは若いアヴェドンの作風を毛嫌いしていたので、アヴェドンは「ダール=ウォルフには見つからないように」との指示を受けていた。その結果、アヴェドンはパリ・コレクションの会場にはあまり足を運べず、パリの街を歩き回ることになった。

この渡仏においてアヴェドンはReneeをモデルとしたディオールのいわゆる「ニュールック」の一連の写真を撮影し、『ハーパース・バザー』誌1947年10月号に掲載された。この時の作品は初期のアヴェドンのファッション写真の特徴であるダイナミックなモデルの動き、パリの街並みを利用した映画風の演出、斬新なカメラ位置、ブレやボケなどの諸特徴をすでに備えていた。アヴェドンがひんぱんに用いた被写体ブレやボケは、彼の登場の10年ほど前に活動していたグループf/64のようなパンフォーカスが主流であった当時のアメリカ写真界では極めて異質なものであり、『ザ・ニューヨーカー』誌は「アヴェドン・ブラー」(Avedon Blur )という語をわざわざ考案してアヴェドンの作風を揶揄した。パリの街をファッション写真の背景に多用する手法については、アヴェドンの師であるブロドヴィッチがデザインを担当して1945年に出版されたケルテース・アンドルの写真集Days of Paris、あるいはブラッシャイウィリー・ロニス、エデュアール・ブーバ(Edouard Boubat )、ロベール・ドアノージェルメーヌ・クルルら東欧からの移民を中心とする写真家達によるパリを題材とした写真群の影響が指摘されている[4]

1947年のパリ・オートクチュール・秋冬コレクションの写真の『ハーパース・バザー』掲載数においてアヴェドンはダール=ウォルフを上回り、(ダール=ウォルフは激怒したものの)アヴェドンは同誌での地位を確固たるものとした。

1948年にはカーメル・スノウのセッティングにより、アヴェドンはココ・シャネルのポートレートを撮影している。ナチのフランス占領中より戦後までココ・シャネルはナチの高官と愛人関係にあったためフランスでの立場は微妙なものであったが、アヴェドンはパリの街角に偶然残っていた「もしもヒトラーが原爆を手に入れていたら」と書かれたポスターの下にシャネルを立たせて撮影を行った上、カーメル・スノウの想像を超える過激な文言を写真に添えようとしたため、スノウは震え上がってこの写真の誌面掲載を見送った。ただしアヴェドンとシャネルはお互いに非常に好感を持っていたという[5]
「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」

1949年『シアター・アーツ』(Theater Arts )誌の編集者兼フォトグラファーとなり、舞台芸術を対象としたジャーナリズムの分野に活動の場を広げていった。

すでにファッション写真家としてはライバル誌『ヴォーグ』で大活躍していたアーヴィング・ペンと並ぶ若手のトップの座を手に入れており、1950年代前半にはドヴィマ(Dovima )、スージー・パーカー(Suzy Parker )、グロリア・ファンデルビルト(Gloria Vanderbilt )、オードリー・ヘプバーンらをモデルとして多くの名作を撮っている。1954年にディオールが「Hライン」を発表した際には、ディオールはこのデザインの着想をアヴェドン撮影によるマレラ・アネッリ(Marella Agnell :フィアット会長ジャンニ・アネッリの妻)のポートレートから得たと発言した。なお1953年12月に撮影されたアネッリのポートレートを1981年に50枚限定でプリントしたもののエディションナンバー44が2010年のクリスティーズのオークションで4万9000ユーロで落札されている[6]

当時金髪のモデルはあまり好まれなかったが、この頃から金髪のモデルを使ったファッション写真の撮影に本格的に取り組んでおり、サニー・ハーネット(Sunny Harnett )を起用してフランス各地で撮影を行なった。1954年にはかつてブラッサイやケルテースらが撮ったような「パリの夜景」を舞台にしたファッション写真に挑戦し、ハーネットをモデルにパリの通りを封鎖してフラッドランプの大がかりな照明を用いた作品を撮影している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef