リソルジメント
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1843年時点のイタリア
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  サルデーニャ王国  パルマ公国  トスカーナ大公国  両シチリア王国  ロンバルド=ヴェネト王国  モデナ公国  教皇国家  ルッカ公国

イタリア統一運動(イタリアとういつうんどう、イタリア語:Risorgimento リソルジメント[1])は、19世紀1815年 - 1871年)に起こった、イタリア統一を目的とした政治的・社会的運動である。

中世以降、イタリアは小国に分裂し、各国家はオーストリアスペインフランスの後ろ楯で権力争いが行われていた(イタリア戦争)。19世紀の初頭にイタリアは、他の多くの欧州諸国と同じく、ナポレオンの勢力圏に入り、諸改革が行われた[2]。ナポレオン没落後はオーストリア帝国の影響の下で旧体制が復活したが[2]カルボナリマッツィーニ青年イタリアを中心とした勢力により、イタリアの統一と封建制度の打倒が目指された。

1848年革命に伴う「ローマ共和国」がフランスの介入で失敗した後は、サルデーニャ王国を中心としてオーストリア帝国に対するイタリア統一戦争 (Guerre d'Indipendenza Italiane) が行われ、オーストリア支配下のロンバルディア(旧ミラノ公国)がサルデーニャ王国に併合された。また、トスカーナエミリア=ロマーニャウンブリアなど中部イタリアは住民投票によってサルデーニャ王国へ併合されることが決められた[2]。この時の各勢力の旗には、現在のイタリア国旗である、三色旗を基本としたものが用いられた。その後ジュゼッペ・ガリバルディは、私設軍隊である千人隊を率いてシチリア島に上陸し、最終的には南イタリア両シチリア王国を征服した。彼はこの功績により国民的英雄とされた[3]

1861年にはイタリア王国が建国され、統一は一応の完成を見る。1866年には普墺戦争に乗じてヴェネト1870年には普仏戦争に乗じてローマなどの教皇領の残りを併合して半島の統一は終了するが、イタリア人(イタリア系の文化を持つ者)が住む土地全てを統一の対象としたこの運動において、未回収地の併合はその後も政治課題として残った(イレデンタ回収主義[4])。最終的に未回収のイタリアがイタリア王国に統合されるのは、第一次世界大戦におけるイタリアの戦勝の後であった。
語源と期間

リソルジメントの語源はカミッロ・カヴールが発行した新聞『イル・リソルジメント』(il Risorgimento) である[5]。この言葉はイタリア語でri + sorgere + mentoに分けることができる。それぞれ、再び、昇る(発生する、立ち上がる)、事(-mentoは動作を名詞化する)を指し、リナシメント (Rinascimento:ri + nascere + mento)、すなわちルネサンスの「再び、生まれる、事」に対応する[6]

リソルジメントの起源については、統一直後はウィーン体制以降とする見方であったが、近現代のイタリア史の研究者の間では18世紀後半の啓蒙主義の時代にまで遡るとする解釈、またはフランス革命およびその後のナポレオンによるイタリア統治を出発点とする見方がなされている[5][7]。イタリア統一は1870年の普仏戦争の際のイタリア王国軍によるローマ占領でほぼ完了した[5][8]
背景

1796年のイタリア
  サルデーニャ王国  ジェノヴァ共和国  トレント司教領  ヴェネツィア共和国  パルマ公国  モデナ公国  ルッカ共和国  トスカーナ大公国  教皇国家  ナポリ=シチリア王国1810年のイタリア
フランス帝国領および衛星国  フランス帝国直轄地  イタリア王国  ルッカ・エ・ピオンビーノ公国  ナポリ王国 フランス帝国勢力外  サルデーニャ王国  シチリア王国

中世以降のイタリア「イタリア戦争」も参照

5世紀西ローマ帝国の滅亡以来、イタリアとよばれた地域、つまりイタリア半島と、その付け根のアルプス以南の大陸部分、サルデーニャシチリアなどの島々は、ゲルマン人東ローマ帝国イスラム勢力などの外来勢力に分割され、統治されてきた。

11世紀から13世紀にかけて、イタリアでは次第に都市国家(英語版)が発達するようになった[9]。この体制はルネサンス時代に絶頂に至るが、16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始めた[10]教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家神聖ローマ帝国スペインヴァロワ朝/ブルボン朝フランス)の代理戦争の場と化した。

18世紀に入るとフランス、ドイツイギリス啓蒙思想が高まり[11]、ピエモンテ公国をはじめとするイタリア諸国でも啓蒙主義改革が行われ、特にトスカーナ大公国ではヨーロッパで最も先進的な改革が実施されている[12]

18世紀末時点のイタリアにはサルデーニャ王国ジェノヴァ共和国、トレント司教領(英語版)、パルマ公国モデナ公国ヴェネツィア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国(英語版)、サンマリノ共和国教皇国家そしてナポリシチリア王国が分立しており、旧ミラノ公国など一部はハプスブルク帝国の支配下にあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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