リジー・ボーデン
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この項目では、1892年の殺人事件に関わった人物について説明しています。その他の用法については「リジー・ボーデン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

Lizzie Borden
リジー・ボーデン
リジー・ボーデン(1889年頃)
生誕 (1860-07-19) 1860年7月19日
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州フォールリバー
死没 (1927-06-01) 1927年6月1日(66歳没)
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州フォールリバー
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リジー・アンドルー・ボーデン(: Lizzie Andrew Borden、1860年7月19日 - 1927年6月1日)は、アメリカ合衆国の女性。

マサチューセッツ州フォールリバーで1892年8月4日に発生した、実父と継母が斧によって殺害された事件の被疑者となったことで知られる[1]。事件とその後の裁判や過熱報道はアメリカの大衆文化犯罪学に大きな影響を与えた。ボーデンは裁判で無罪となり、真犯人は見つかっておらず、彼女は有名なアメリカの民間伝承となっている。
殺人事件アンドリュー・ボーデンの死体アビー・ボーデンの死体

1892年8月4日の朝、父アンドリュー・ジャクソン・ボーデンと継母アビー・ボーデンは自宅で殺害された。当時他にその家にいたのは、リジーとメイドのブリジット・サリバンだけだった。アンドリューの最初の妻の兄弟ジョン・V・モースも当時その家を訪れていたが、殺害時刻には家を離れていた[1]。リジーの姉エマも家を離れていた[1]

その日、アンドリューはいつものように銀行と郵便局に出かけ、10:45ごろ家に戻った。その約30分後、リジーが死体を発見した。サリバンの証言によれば、午前11:00直後にリジーが階下の居間の長いす上に横たわる父の死体を発見して声を上げたとき、彼女は3階の自室で横になっていたという。アンドリューの顔は眠っているように右手側に向けられていた[2]

その直後、リジーが隣家の住人とかかりつけの医者に世話されている間に、サリバンが上階のゲスト用ベッドルームでアビーの死体を発見した。夫妻はどちらも斧で殴られて死亡しており、アンドリューの場合は頭蓋骨が砕かれているだけでなく、左の眼球がきれいに真っ二つになっていた[3]
動機と手口殺人現場となったボーデン家

アンドリューの最初の妻が亡くなった後、ボーデン家では争いが絶えなくなった。上階は2つに分割され、前半分が姉妹の領域、後ろ半分が夫妻の領域となっていた。食事を一緒にとらないことも多く、アンドリューの多額の財産の配分についても確執が存在した。自宅は継母が相続することが決められており、叔父であるジョン・モースがその週に訪れていたのは、姉妹が避暑用の別荘にしていた家を含む農場の相続に関係してのことだった。殺人の少し前に激しい議論が行われ、姉妹は長い休暇をとって家を離れることになったが、リジーは休暇を取りやめて早めに家に戻ったのである。

彼女は近所の薬屋から青酸を購入しようとして断られている。これについて彼女はアザラシの毛皮のコートを洗浄するためだったと主張している[4]

殺人の起きる少し前、家族全員の体調が悪くなった。アンドリューは町であまり好かれていなかったため、アビーは毒を盛られたのではないかと恐れた。しかし、かかりつけの医師は食中毒と診断した。
裁判

リジーの証言は一貫性がなく、彼女の行動には疑わしいところがあった。彼女は殺人罪で起訴され、前マサチューセッツ州知事ジョージ・D・ロビンソンが弁護に当たった。検察側には後にアメリカ合衆国司法長官合衆国最高裁判所の陪席裁判官を勤めたウィリアム・ヘンリー・ムーディがいた。

警察の調べにより、斧が地下室で発見され凶器とされた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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