この項目では、17世紀フランスの宰相について説明しています。その他の用法については「リシュリュー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー
Armand Jean du Plessis de Richelieu
リシュリュー枢機卿
『リシュリュー枢機卿』(フィリップ・ド・シャンパーニュ画、1637年)
首都大司教管区ボルドー
司教区リュソン
主教区リュソン
着座1607年4月17日
離任1624年4月29日
前任アルフォンス・ルイ・デュ・プレシー・ド・リシュリュー
枢機卿およびリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー(フランス語: Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585年9月9日 - 1642年12月4日[1])は、カトリック教会の聖職者にしてフランス王国の政治家である。1624年から死去するまでルイ13世の宰相を務めた。緋色の枢機卿(the Red Eminence 仏:l'Eminence rouge)とも呼ばれた。 フランス西部の小貴族の三男として生まれ、聖職者の道を進んだリシュリューは、1607年に司教叙階を受け、1609年にリュソン司教
概要
中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて後年の絶対王政の基礎を築いた。また、国内のプロテスタントを抑圧し1628年にはフランスにおける新教勢力の重要な拠点であったラ・ロシェルを攻略した(ラ・ロシェル包囲戦)。対外的には、勢力均衡の観点から同じカトリック勢力であるオーストリア・ハプスブルク家、スペイン・ハプスブルク家に対抗する姿勢をとった。そのため、国内ではラ・ロシェルを攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、三十年戦争に際してプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦した。一方で、文化政策にも力を注ぎ、1635年には「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設した。
これらの諸政策は一部の王族や封建的な大貴族の強い反発を招き、幾度となくリシュリューを排除しようとする陰謀が企てられたが、その度に発覚して関係者が処刑された。しかしながら、これらの動きはリシュリューの死の直前まで続いた。1642年に居館のパレ・カルディナル(現パレ・ロワイヤル)で没し、後に建てられたパリのソルボンヌ教会に葬られている。
第二次世界大戦に参加したフランス海軍の戦艦「リシュリュー」が彼にちなんで命名されたほか、1959年から1963年まで発行された10フラン紙幣に肖像が採用されていた。 後にリシュリュー枢機卿となるアルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリューは、1585年9月9日にフランス西部の下級貴族夫妻の5人の子供の4番目、三男としてパリで生まれた。リシュリュー一族はポワトゥーの下級貴族ではあったが、父フランソワ・デュ・プレシー・ド・リシュリュー
生涯
青少年期
アンリ4世はフランソワの戦争での報償としてリシュリュー家にリュソン司教職(フランス語版)を与えていた。リシュリュー家はこの司教職の収入をもっぱら私用に供していたが、教会の目的のために資産を使うことを望む聖職者たちから訴訟を起こされていた。母シュザンヌは重要な収入源を守るために次男アルフォンスをリュソン司教に就かせようとするが、アルフォンスはカルトジオ修道会(フランス語版)の修道士になることを望み、司教職を拒否した。このため、弟のアルマンが聖職者の途に入らねばならなくなった。痩せて虚弱な少年だったが学問を好む彼は、期待に背くことはなかった。
1606年、国王側近の長兄アンリの働きかけにより[4][5]、国王アンリ4世は21歳のリシュリューをリュソン司教に任命した。彼はまだ教会法の定める年齢に達していなかったため、ローマ教皇の特免を受けるためローマを訪れて、1607年4月に正式に司教の叙階を受けた。1608年に司教区へ赴任して程なく、プロテスタントが強い力を持つこの教区[6]で改革を布告した。リシュリューはトリエント公会議で定められた教会改革をフランスで最初に実施した司教となった。
この頃、リシュリューは「ジョセフ神父」(Pere Joseph)の名で知られるカプチン・フランシスコ修道会のフランソワ・ルクレール・デュ・トランブレーと親交を持ち、後に彼はリシュリューの腹心となった。リシュリューとの親交と、常に灰色のローブを身に着けていたことにより、ジョセフ神父は“l'Eminence grise”(灰色の枢機卿、黒幕)の異名を持つことになる。後にリシュリューは彼を外交交渉にしばしば用いている。
権力掌握までリシュリューの初期のパトロンのコンチーノ・コンチーニ
1614年、ポワトゥーの聖職者たちの求めにより、リシュリューは教区の代表として全国三部会へ出席した。三部会において彼は精力的な教会の代弁者として活動し、教会の免税と司教の政治的権力の向上を主張した。彼はトレント公会議の布告の実施を主張する最も際立った聖職者だった。平民の第三部会が彼の努力に対する最大の敵対者となった。会議の終わりに第一部会(聖職者)は請願書や意思決定を読み上げる演説者に彼を選んだ。リシュリューの雄弁は摂政マリー・ド・メディシスとその寵臣コンチーノ・コンチーニの関心を引き[7]、三部会の閉会後まもなく、リシュリューはルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷に仕えることになった[8]。