リシャール2世_(ノルマンディー公)
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リシャール2世
Richard II
ノルマンディー公
ファレーズにあるノルマンディー公像の中のリシャール2世
在位996年 - 1026年

出生 (963-08-23) 963年8月23日
ノルマンディー公国
死去 (1026-08-28) 1026年8月28日(63歳没)
ノルマンディー公国
配偶者ジュディット・ド・ブルターニュ
 パピア・ダンヴェルム
子女一覧参照
家名ノルマンディー家
父親ノルマンディー公リシャール1世
母親グンノール(英語版)
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リシャール2世(Richard II, 963年8月23日 - 1026年8月28日)は、ノルマンディー公(在位:996年 - 1026年)。善良公(Le Bon)といわれる。ノルマンディー公リシャール1世とグンノール(英語版)の間の長男[1][2]
生涯

リシャールは996年に父親よりノルマンディー公位を継承した[1]。公位についた最初の5年間は、父の異父弟ラウル・ド・イヴリー(Raoul d'Ivry)が摂政をつとめた。ラウルは権力を行使し、リシャールが公位についてまもなく起こった農民の反乱を鎮圧した[3]

リシャールは信仰心が篤く、フランス王ロベール2世と共通するところが多く、リシャールはブルゴーニュ公と対立していたロベールに軍事面で支援した[3]。リシャールは自身の妹アヴォワーズをブルターニュ公ジョフロワ1世と結婚させ、自身もジョフロワの妹ジュディットと結婚することで二重の婚姻関係を結び、ブルターニュとは同盟関係を構築した[3]

1000年から1001年にかけて、コタンタン半島エゼルレッド2世によるイングランド軍の攻撃を撃退した[4]。エゼルレッドはリシャールを捕縛しイングランドへ連れ帰るよう命じていた[5]。しかし、イングランド軍は、ノルマン騎馬隊の素早い反応に対処できず、完全な敗北を喫した[6]

リシャールは、自身の妹エンマとエゼルレッドを結婚させることで、イングランドとの関係の改善を試みた[4]。この結婚は、後にリシャールの孫ギヨームがイングランド王位継承権を主張する根拠となり、大きな意味を持つこととなった[7]。また、この結婚は1013年にデンマーク王スヴェン1世がイングランドに侵攻した際に、エゼルレッドに有利に働いた。エンマは二人の息子エドワードとアルフレッドとともにノルマンディーに亡命し、その後すぐエゼルレッドもノルマンディーに亡命することができた[7]。エゼルレッドの死後まもなく、クヌート1世はエンマと強引に結婚し、エンマを再び王妃とすることでクヌートの王位を認めるようリシャールに求めた[4]。リシャールはその治世の間、スカンジナビアのヴァイキングとの接触を持ち続けた。リシャールはヴァイキングの傭兵を雇い、最終的にイングランドに向かう途中のスヴェン1世と条約を結んだ[8]

リシャールは自身の書記官および聴罪司祭のデュドン・ド・サン=カンタン(Dudon de Saint-Quentin)に、歴代公爵を周囲の大領主たちが不信行為を行う中ノルマンディーを建国した、道徳的に公正なキリスト教徒の統治者として描くよう命じた[9]。これは明らかにノルマン人の定住を正当化するための戦略であり、その中には多くの歴史的に信頼性のない伝説も含んでおり、父リシャール1世および祖父ギヨーム1世の治世に対する敬意が伺われる[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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