リゴベルタ・メンチュウ・トゥム
Rigoberta Menchu Tum
イタリアでの会議に参加するメンチュウ
生誕 (1959-01-09) 1959年1月9日(65歳)
グアテマラ
受賞ノーベル平和賞(1992年)
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1992年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:グアテマラ先住民の人権と権利の向上のための努力に対して
リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(Rigoberta Menchu Tum, 1959年1月9日キチェ県チメール - )はグアテマラのマヤ系先住民族の1つキチェ族の人権活動家・実業家である。1992年にノーベル平和賞、1998年にアストゥリアス皇太子賞国際協力部門を受賞した。メンチュウはユネスコ親善大使の1人である。人類学者のエリザベス・ブルゴスによる聞き取り『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』(1983年)、Crossing Borders などの著書がある。幼少期から不正、差別、人種差別、グアテマラの極貧状態で生きる何十万もしくは何百万人もの先住民に対する搾取の事実を痛切に感じていた。軍と準軍組織により、両親、兄弟、共同体のメンバーが暗殺されている。
2007年2月12日メンチュウは先住民の政党をつくり、2007年大統領選挙に立候補すると発表し、「グアテマラのための出会い」の候補者となった。9月10日、メンチュウの得票は約3.06%にとどまった。 メンチュウはカトリック系の全寮制の学校で初等教育を受け、1960年から1996年まで続いたグアテマラ内戦時代の軍事政権による人権侵害に反対する農民統一委員会 (CUC) の活動家になった。 1982年、彼女はフランス系ベネスエラ人の人類学者エリザベス・ブルゴスにより "Me llamo Rigoberta Menchu y asi me nacio la conciencia" (My Name is Rigoberta Menchu and this is how my Conscience was Born) の録音取材を受けた。この本は1983年にスペイン語とフランス語訳で出版され、カサ・デ・ラス・アメリカス賞
生い立ちと活動
1991年、メンチュウは先住民族の権利に関する国際連合宣言を協議する作業部会に加わった。
また、メンチュウらは、1980年に起こった在グアテマラ・スペイン大使館占拠事件に対する虐殺などの責任追及を求めて、スペインに軍と政権の関係者の裁判を求めてきた。内戦の間に犯された犯罪の起訴がグアテマラでほとんど不可能なため、1999年に彼女はスペインの法廷に訴状を提出した。スペインの法廷は原告がグアテマラの法制度上での正義の追求の可能性をすべて使い果たしたわけではないと判断したため、これらの試みは頓挫した。
2006年12月23日、スペインは、大量虐殺と拷問の罪でグアテマラの7人の元政府関係者の引渡しをグアテマラ政府に要求した。この中には軍事支配者のエフライン・リオス・モントやオスカル・ウンベルト・メヒア・ビクトレスも含まれていた。スペインの最高裁判所は、スペインの市民が関与せずとも海外で犯された大量虐殺の事件をスペインで審理することができると決定した。スペイン市民の死亡に加え、最も重大な訴えにはグアテマラのマヤ系の人々に対するジェノサイドが含まれている。
メキシコに亡命する中で低価格の後発医薬品を提供するために彼女は Salud para Todos(万人の健康)社と Farmacias Similares(類似薬)社の代表としてメキシコで製薬産業に没頭した[1]。
2004年以降、彼女は1996年の和平協定の大統領親善大使を務める[2]。
2007年のグアテマラ大統領選挙でメンチュウは第一次投票で敗れた[3]。 "I, Rigoberta Menchu" の出版から10年以上経った1999年、米国の人類学者デヴィッド・ストール (David Stoll
ストールによる批判
『私の名は』によればメンチュウと家族が、ヨーロッパ系の子孫である裕福なグアテマラ人とグアテマラ政府による支配との闘いに活発に関与していると主張し、また父親のビセンテ・メンチュウが農民統一委員会の創設者だとしている。ストールとローサーは、ビセンテは貧しいが地域のマヤの平均よりは裕福だったのを見付けたとした。共同体のリーダーとして彼はグアテマラ政府から 27.53 km2の土地の借地権を得た。不幸にも彼の成功は、同じ土地の一部を要求していた妻側の親族、トゥム家との長期にわたる係争を生むことになった。