リコルディ
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リコルディ(Casa Editrice Ricordi)は、イタリアミラノに本拠をおく楽譜出版会社。19世紀から20世紀初頭のイタリア・オペラ隆盛期にあって、ベッリーニドニゼッティヴェルディそしてプッチーニの楽譜出版をほぼ独占、時には彼らの新作オペラ作曲プロセスにも深く関与するなどしたことで有名である。
歴史
ジョヴァンニの時代ジョヴァンニ・リコルディ

リコルディ社の創業者ジョヴァンニ・リコルディ(Giovanni Ricordi、1785年 - 1853年)は、もともとヴァイオリン奏者で、ミラノの小オペラ劇場のコンサート・マスターであったが、1804年写譜業に転業する。1807年ライプツィヒの同業者の下で石版印刷法を習得、1808年にミラノに帰り、今日のリコルディ社を創業した。1814年にはスカラ座で上演される新作オペラ譜の独占的写譜権を取得、また同社の写譜した新作に関しては他劇場に独占的貸与権を得た。1825年にはスカラ座の既存全楽譜を安価で買収、また1830年には更に進んでスカラ座での新作オペラバレエ全ての楽譜・台本の出版権は自動的にリコルディ社に帰属することとなった。外国(主にパリ)初演のオペラも、スカラ座でイタリア初演がなされる限りこの条項が適用された。

こうしてリコルディ社は、作曲者や台本作家の意思にかかわりなく、多くの人気オペラの出版権を蓄積できることになった。国際的な著作権保護の概念の発達した現代から見れば横暴極まりない行為とも言えようが、19世紀前半のイタリアでは作曲家は楽譜出版や、上演による興行収入で生活していたわけではなく、劇場あるいは劇場支配人[注釈 1]に対して自筆楽譜を売却することで金銭を受領していた[注釈 2]のであり、劇場から楽譜を買い取ったリコルディ社は、その慣例に従っていたに過ぎない。

また、当時のイタリアは統一以前であり[注釈 3]、リコルディ社の独占権はミラノあるいはヴェネツィアの含まれるオーストリア帝国治下に限られていたため、例えばナポリサン・カルロ劇場初演作には同社の支配は及ばなかった。さらに、当時最大のオペラ作曲家ロッシーニはパリに制作の本拠を移して久しかったため、リコルディ社はイタリア人新人作曲家との結びつきを強めて、スカラ座に対する新作供給を強化する戦略に出た。

ジョヴァンニはまず、ベッリーニおよびドニゼッティの可能性を見出し、彼らのオペラのほぼ全曲の出版を行う。ドニゼッティの最後期の作品『ドン・パスクワーレ』では、リコルディ社では作曲以前に出版権を作曲者から購入し、パリ、ナポリ、ウィーンロンドンの同業者に各地での出版権を転売するなど、オペラ・ビジネスは過熱を極めていた。

そして、リコルディ社の見出した最大のヒット作曲家こそヴェルディであった。彼の第一作『サン・ボニファーチョの伯爵オベルト』はスカラ座で初演されたから、当然にリコルディ社に出版権が帰属する[注釈 4]。しかし、『ナブッコ』の成功で自らの経済的価値に目覚めたヴェルディはその後、劇場側に対する度重なる上演権料増額、前払い要求を行い、実現させていった。また、リコルディ社に対する交渉力強化を狙って、ライバルであるルッカ社[注釈 5]とも関係を結ぶ。ヴェルディとルッカ社との契約は成功作に恵まれなかったこともあって1848年には解消、リコルディ社との単独契約に戻るが、そのプロセスで力と自信をつけたヴェルディは要求を更に拡大、出版社側が自由に楽譜を印刷・再版する権利は完全に否定され、今日あるような作曲者と楽譜出版社との関係が構築された。
ティート1世の時代ティート・リコルディ

創業者ジョヴァンニは『椿姫』初演直後の1853年に死去、事業は息子のティート・リコルディ(1世)(Tito I Ricordi、1811年 - 1888年)に引き継がれた。彼は音楽評論雑誌ガゼッタ・ムジカーレ・ディ・ミラノを主宰するなどその見識はビジネスとしての音楽に留まらなかったが、一方で誕生したばかりのイタリア統一国家をビジネス・チャンスと考え、1864年ナポリ1865年フィレンツェ1871年にローマ、1888年パレルモに支店を拡大、またロンドンパリにも事務所を置いて国際的な出版社としての体制を整えた。また、経営不振に陥っていたルッカ社を吸収合併、同社の保有していたワーグナー作品のイタリアにおける出版権を得たことも、収益に大きく貢献した。もちろん、リコルディ社最大の資産はこの頃もヴェルディであった。
ジュリオの時代

ジョヴァンニの孫、ティートの息子ジュリオ・リコルディ(Giulio Ricordi1840年 - 1912年)は、リコルディ社中興の祖と称される人物。父ティートから、単なる出版業者の後継者としてでなく作曲を含む文化人としての高い教育を受けたジュリオは、単なる受身での音楽出版でなく、積極的に作曲家と台本作家を引き合わせ、アイディアを交換し、より芸術性も興行性も高いオペラ作品を生み出そうと務めた。処女作オペラ『メフィストーフェレ』の大失敗で意気消沈していたボーイトの文才を愛し、カタラーニポンキエッリに台本を提供するよう誘導したのはジュリオであり、『アイーダ』以降事実上休筆状態だったヴェルディをそのボーイトとの共同作業に駆り立て、大傑作『オテロ』および『ファルスタッフ』に結実させたのも、またジュリオの功績によるところが大きい。

1883年、リコルディ社の新興ライバル、ミラノのソンゾーニョ社(イタリア語版)が一幕物のオペラ・コンクールを開始する。1889年の第2回コンクールで優勝作品となったマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』は多くの若手作曲家を触発し、レオンカヴァッロ道化師』など多くの類似作品を生む。ヴェリズモ・オペラ時代の到来である。マスカーニとレオンカヴァッロ以外にも、ソンゾーニョ社はジョルダーノおよびチレアを擁し、ヴェリズモ・ブームの一大牙城を築く。もはや新たな作品を産み出し得ないヴェルディに替わって、新たなオペラ作曲家をリコルディ社も必要としていた。

そのとき新たに見出されたのがプッチーニである。1883年の第1回ソンゾーニョ・コンクールに『妖精ヴィッリ』で落選していたプッチーニは、ジュリオにその才を認められる。1889年の『エドガール』も失敗作だったが、ジュリオのプッチーニに賭ける信念は揺らがず、『マノン・レスコー』(1893年)以降の成功によって、リコルディ社はソンゾーニョ社に対抗しうる資産を確保したのだった。ジュリオがプッチーニ引き立てのために弄した手段は尋常以上のものであった。例えば『トスカ』のオペラ化権は凡庸な作曲家アルベルト・フランケッティの手にあったが、ジュリオは台本作家ルイージ・イッリカと共謀して、『トスカ』がいかにオペラに「不向きな」題材であるか、をフランケッティに説いて、権利買戻しに成功、プッチーニの傑作を誕生させている。当のプッチーニもジュリオとリコルディ社に絶大な信頼を寄せており、オペレッタへの進出を狙った『つばめ』以外の全作品がリコルディ社からの出版である。
ティート2世、そして家族経営からの脱却

リコルディ家の最後を飾る人物はティート・リコルディ(2世)(Tito II Ricordi1865年 - 1933年[1])である。


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