リゲティ・ジェルジュ・シャーンドル
Ligeti Gyorgy Sandor
基本情報
生誕1923年5月28日
ルーマニア王国 トゥルナヴェニ
死没 (2006-06-12) 2006年6月12日(83歳没)
オーストリア ウィーン
ジャンル現代音楽
職業作曲家
ポータル クラシック音楽
リゲティ・ジェルジュ・シャーンドル(Ligeti Gyorgy Sandor [?lig?ti ??or? ?????ndor]、1923年5月28日 - 2006年6月12日)は、ハンガリー系オーストリア人の現代音楽作曲家。クラシック音楽で実験的な作品を多く残した。スタンリー・キューブリック監督は映画『2001年宇宙の旅』、『シャイニング』、『アイズ ワイド シャット』などでリゲティの音楽を使用したため、その音楽はクラシック音楽を越えて広く知られる。ジェルジ・リゲティとも表記されることが多い。
概要
ハンガリー時代ISCM世界音楽の日々(1982年)にて 左より順にリゲティ、息子のルーカス・リゲティ、リゲティ夫人、コンロン・ナンカロウ、マイケル・ドアティ
ルーマニア王国トランシルヴァニア中南部のディチェーセントマールトン(今はトゥルナヴェニと改称)にて、ユダヤ系ハンガリー人の家に生まれた。リゲティ本人の弁によると、少年時代のリゲティは有機化学と数学に熱中し、1941年にコロジュヴァール(今のクルジュ=ナポカ、第二次ウィーン裁定の結果ハンガリー領になっていた)の大学に合格したが、当時のハンガリーにはユダヤ人に対する入学許可人数制限があったため、入学が許されず、かわりに同地の音楽院に入学した[1]。1941年から1943年まで、コロジュヴァールの音楽院で作曲をファルカシュ・フェレンツに学んだ[2]。
第二次世界大戦の折には、家族はバラバラに強制収容所に入れられ、父はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟はマウトハウゼン強制収容所で命を落とした[3][4]。
終戦後リゲティは、ブダペスト[5]のリスト・フェレンツ音楽大学でコダーイ・ゾルターンやカドシャ・パール、ヴェレシュ・シャーンドル、ファルカシュ・フェレンツらのもとで音楽を学び、1950年から1956年までは同大学で和声と対位法を教えた[2]。当時のハンガリーには戦後の西側の実験的な音楽については何の情報もはいってこなかった。リゲティは社会主義リアリズムからは距離を置き、民謡とハンガリーの古典詩を元に作曲したが、しばしば当局によって演奏が禁止されたため、非公開のまま自分のためだけに作曲するようになった[6]。この時代に書かれた『ムジカ・リチェルカータ』や弦楽四重奏曲第1番「夜の変容」などは亡命後の作品とは傾向が異なるものの、すでにきわめて独創的な音楽だったが、当時のハンガリーでは発表する機会を持たなかった。
当時のリゲティはバルトークの音楽を理想とし、本人の弁によればストラヴィンスキーの影響も受けていた。合唱曲にはコダーイの影響があり、『カプリッチョ』ではヒンデミットの影響があらわれている[7]。 ハンガリー動乱がソ連軍に鎮圧された1956年末にオーストリアに亡命した。1957年から1959年にかけて西ドイツのケルンの電子音楽スタジオで働いた[2]。このときにそれまで知らなかったウェーベルン、シュトックハウゼン、ブーレーズらの新しい音楽を吸収し、それにブダペスト時代からあたためていたアイディアを発展させて自らの音楽を作曲しはじめた[6]。1959年からはオーストリアのウィーンに住み、1968年に同国の市民権を取得した[2]。 1960年代にはダルムシュタット夏季現代音楽講習会で講義を行い、ストックホルム音楽大学の名誉教授の学位を授かった[2]。1969年から1970年にかけてベルリンのドイツ学術交流会奨学金を受け、1972年には渡米してスタンフォード大学のコンポーザー・イン・レジデンスに就任した[2]。1973年から1989年にかけてハンブルク音楽演劇大学で作曲の教授をつとめ[8]、多くの弟子を輩出した。 リゲティは1960年に『アパリシオン』、翌年に『アトモスフェール』という管弦楽作品を発表し、大きな反響を得た。この当時のリゲティの作品はトーン・クラスターを特徴とし、中でも音のテクスチュアの密度が高いために聞き手が個々の声部を知覚できないものをリゲティは「ミクロ・ポリフォニー」と呼んだ。1960年代はじめには、ある範囲のすべての半音を埋め尽くすような作品を書いていたが、『ルクス・エテルナ』(1966年)以降は全音階的な旋律を複雑に重ねた技法に移行した[9]。
亡命後