リグリア軍集団
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リグリア軍集団(Heeresgruppen Ligurien, LXXXXVII Army)は第二次世界大戦中のイタリア社会共和国(RSI)の国軍である共和国軍 (Esercito Nazionale Repubblicano、ENR)のために作られた軍の編成。1943年に編成され1945年まで存在した。リグリア軍集団はドイツ部隊とイタリア部隊からなり、時にドイツ国防軍の編成下に移行された。
前史

1943年10月16日、ラステンブルク議定書がドイツとイタリアの間に調印され、4個師団の軍編成を集めることが許可された。これらの師団は第1「イタリア」歩兵師団、第2「リットリオ」歩兵師団、第3「サン・マルコ」海兵師団、第4「モンテ・ローザ」山岳師団の4個師団で最終的に総員52,000名に及んだ。

1944年7月、最初の3師団が訓練を終え、前線へと送られた。黒い旅団やテンスフローティラMASなど他の小さいRSIの部隊と同じように、新編された師団は通常パルチザン掃討に参加し、例外的に、限定的な前線戦闘行動を行った。最後の師団が訓練を終えた後、これらの部隊はドイツ部隊と合流し、リグリア軍集団を構成した。軍集団の司令官にはイタリアのアルフレード・グッツォーニ(en:Alfredo Guzzoni)がついた。RSIの国防省のロドルフォ・グラツィアーニがRSI全軍の司令官であった。
戦闘序列

1945年4月30日時点での戦闘序列[1]

第75兵団

ドイツ軍第5山岳師団

イタリア軍第2「リットリオ」歩兵師団

ドイツ軍第34歩兵師団



ロンバルディア兵団

イタリア軍第3「サン・マルコ」海兵師団

第134ドイツ歩兵連隊

第4「モンテ・ローザ」山岳師団

第1「イタリア」歩兵師団はドイツ第14軍に合流した。
降伏

1945年5月1日、グラッツィアーニは指揮下にあるRSI軍に武器を捨てるように命令し、リグリア軍集団は消滅した。ドイツ軍の上級大将であったハインリヒ・フォン・フィーティングホフはイタリア国内の全枢軸軍の無条件降伏に合意し、5月2日正午をもって指揮下の全部隊が降伏した[1]
^ a b The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Hans Dollinger, Library of Congress Catalogue Card Number 67-27047











第二次世界大戦中のドイツ軍の編成
軍集団

A

B

C

D

E

F

G

H

アフリカ

ドン

クールラント

リグリア

中央

北方

北ウクライナ

オーバーライン

オストマルク

オストプロイセン

南方

南東

南ウクライナ

チュニジア

ヴァイクセル

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第3

第4

第5

第6

第7

第8

第9

第10

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第12

第14

第15

第16

第17

第18

第19

第20山岳

第21

第24

第25

ラップランド

ノルウェー

装甲

第1

第2

第3

第4

第5

第6SS

アフリカ

降下猟兵

第1

関連項目

武装親衛隊の編成

ドイツ空軍の編成


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