リクサ・エルジュビェタ
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リクサ・エルジュビェタ
Ryksa El?bieta
ボヘミア王妃
ポーランド王妃
リクサ・エルジュビェタ(14世紀)
在位ボヘミア・ポーランド王妃:1300年 - 1305年
ボヘミア王妃:1306年 - 1307年

出生 (1286-09-01) 1286年9月1日
ポーランド王国ポズナン
死去 (1335-10-18) 1335年10月18日(49歳没)
神聖ローマ帝国
ボヘミア王国ブルノ
埋葬 神聖ローマ帝国
ボヘミア王国ブルノ、聖母マリア被昇天教会
結婚1303年5月26日 聖ヴィート大聖堂
1306年10月16日
配偶者ボヘミア王ポーランド王ヴァーツラフ2世
 ボヘミア王ルドルフ1世
子女アネシュカ
家名ヴィエルコポルスカ・ピャスト家
父親プシェミスウ2世
母親リクサ・シュウェツカ
宗教キリスト教カトリック教会
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リクサ・エルジュビェタ(16世紀).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、リクサ・エルジュビェタに関連するカテゴリがあります。

リクサ・エルジュビェタ(ポーランド語: Ryksa El?bieta、1286年9月1日 - 1335年10月18日)は、ボヘミア王ポーランド王ヴァーツラフ2世の2番目の妃、またその死後にボヘミア王位についたオーストリアルドルフ3世(1世)の妃。チェコ語名はエリシュカ・レイチュカ(Eli?ka Rej?ka)、ドイツ語名はエリーザベト・リヒツァ(Elisabeth Richza)。
生涯

ポーランド王プシェミスウ2世の一人娘で、母はスウェーデン王ヴァルデマール1世の三女リクサヴィエルコポルスカ公であった父は1295年、2世紀ぶりにポーランド王として戴冠したが、翌1296年2月10日に男子のないまま暗殺された。幼いリクサはプシェミスウ2世の女子相続人・ポーランド王位請求権者として、ポーランド王位をめぐる争いにおいて重要な立場に置かれていた。リクサはまだ子供だった頃に、継母マウゴジャータ(英語版)の弟オットー(ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト3世(英語版)の長男)と婚約したが、結婚する前に死別している。

1300年、リクサのポーランド王位継承権を利用してポーランド獲得を目論む寡夫のボヘミア王ヴァーツラフ2世と結婚した。ヴァーツラフ2世はプシェミスウ2世が存命していた1291年に、クラクフ長子領を支配下に収めており、リクサを娶った1300年にポーランド王を兼ねることになった。ただし結婚の式典はリクサが成人するまでしばらく待たれた。結婚披露宴は1303年5月26日、リクサがプラハに到着してボヘミア王妃として戴冠すると同時に行われた。「レイチュカ(リクサ)」という名前がボヘミアでは一般的でなく、奇妙に思われたため、結婚式・戴冠式に際して名前を「エリシュカ(エルジュビェタ)」と改めた(本項では以後もリクサと表記)。1305年6月21日にヴァーツラフ2世が結核のため病没すると、未亡人となったリクサは同年8月から10月まで摂政を務めた。継子のヴァーツラフ3世が父の後を継いだが、翌1306年にオロモウツで暗殺された。これにより、ポーランド君主の座はクヤヴィ公ヴワディスワフ1世に渡った。

1306年10月16日、リクサはヴァーツラフ3世の後継者を名乗ってボヘミア王位獲得を狙うオーストリア公ルドルフ3世と再婚した。ルドルフは首尾よくボヘミア王に即位し(ルドルフ1世)、リクサは王妃の座に復帰した。しかしこの復権も短いもので、1307年7月4日、ルドルフは反対派貴族をホラジュジョヴィツェ城砦に追い込んで包囲中、赤痢にかかって急死した。


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