リキュール(仏: liqueur[注 1]、英: liqueur[注 2])とは、蒸留酒(スピリッツ)に果実やハーブなどの副材料を加えて香味を移し[1]、砂糖やシロップ、着色料などを添加して調製した混成酒である。
素で飲むこともあるが[1]、多くはソーダ割りやカクテルの材料[1]、菓子の風味付けなどに使う。 原初のリキュールが誕生したのは紀元前の古代ギリシャである。医師ヒポクラテスが、ワインに薬草を溶かし込んだ薬酒を作ったのがその起源とされている[2]。これは、当時人々が、酸味が強く飲みづらかったワインに蜂蜜などを混ぜて飲んでいたことにヒントを得て作られたといわれている。ただし、現在のリキュールは蒸留酒をベースとしたものが一般的であり、ワインをベースとしたものはリキュールとは呼ばないので、この薬酒を「リキュール」の起源とすることはできない[3]。 現在のリキュールの原型、すなわち蒸留酒をベースとしたリキュールの原型が作られ始めたのは、11世紀から13世紀にかけてである。11世紀に、当時の錬金術師たちによって、「生命の水」(アクアヴィテ / Aquavitae)と呼ばれる蒸留酒が作られた。アクアヴィテには薬酒としての効能があると伝えられ、重宝されたことから、薬酒・錬金術の薬液「エリクサー」としてのリキュールの開発が始まった。 13世紀に、ローマ教皇の医師だったスペイン人アルナルドゥス・デ・ビラ・ノバとラモン・リュイは「スピリッツに薬草の成分を溶かし込めば、さらに薬酒としての効能が高まる」と考え、レモンやバラ、オレンジフラワーなどの成分をスピリッツに抽出したリキュールを作ったりした。この薬酒は、ラテン語で「溶け込ませる」「液体」という意味を持つ「リケファケレ (Liquefacere)」と命名された。 このように、初期のリキュールには薬酒としての性格が強かったので、以後これらのリキュールの製法は修道院に伝えられていった。14世紀に入り、黒死病がヨーロッパで猛威をふるった際に「リキュールは病の苦しみを和らげる」と信じられたことも、修道院がリキュールを扱うようになった背景である。彼らは、付近から薬草や香草を収集、独自リキュールの調製に励んだ。これは現代においても、ヨーロッパで薬草を副材料としたリキュールの開発が盛んである背景となっている。 現在のように、リキュールが嗜好品として扱われるようになったのは15世紀になってからのことである。北イタリアの医師ミケーネ・サボナローラ
歴史
イタリア全土に広まったリキュールは、16世紀、フィレンツェの名家メディチ家の娘カトリーヌ・ド・メディチがアンリ2世に嫁入りし、その際に同行したシェフが、「ポプロ」という酒[注 4]を紹介し、フランス宮廷内で人気を博した。これはルイ14世の17世紀にかけて、「液体の宝石」と呼ばれるほどに色合いの美しいリキュールが開発されていくきっかけの一つともなった。
また、時を同じくして大航海時代となると、従来の薬草を中心とした副材料に加え、新大陸あるいはアジアから持ち込まれた香辛料がリキュールの開発をさらに加速させていく。甘味、風味を増したリキュールは多様化し、誕生していった。最古のリキュール・メーカーであるボルス社は、この時代の1575年にオランダで誕生した。
近代になると、技術の革新や食生活の富裕化、あるいは医療技術の進歩によって、リキュールは薬としての役割を失っていった。そして、風味や色を重視したものが作られるようになった。19世紀後半、連続式蒸留機の開発・普及によって高濃度のアルコールが生成できるようになると、それをベースとしたリキュールが次々と開発されていった。こうした技術の革新や向上は現在においても行われており、これまで困難とされてきたクリームなどの動物性原料を使用したものなど、新しいタイプのリキュールが開発されている。 日本にリキュールが伝わった時期については諸説ある。
日本のリキュールの歴史
平安時代説
平安時代に中国から伝わった屠蘇を起源とするという説。
16世紀説[4][5]
豊臣秀吉の時代に、宣教師が「利休酒」というリキュールを持ち込んだとする説。「宣教師らが葡萄酒や利休酒を用いて改宗させようとしている」という記述があり、これが日本のリキュールの原初だとする。
江戸時代説[6]