リカルド・リデル
Rickard Rydell
2012年
基本情報
国籍 スウェーデン
生年月日 (1967-09-22) 1967年9月22日(56歳)
出身地スウェーデン、ヴァレントゥナ
リカルド・リデル(Rickard Rydell , 1967年9月22日 – )は、スウェーデン・ストックホルム出身の元レーシングドライバー。日本のレース雑誌やテレビ番組ではリカルド・ライデルと表記されることもある。 1984年、1985年にスウェーデンカート選手権(100cc部門)でチャンピオンとなった。 F3においては、スウェーデンF3(1987年、1988年)、イギリスF3(1989年、1991年)、全日本F3(1990年、1992年、1993年)、と、実に7年もの長きに渡って各国のF3選手権に参戦した。この間、1989年のイギリスF3ではエディ・ジョーダン・レーシング、全日本F3ではいずれの年もトムスに所属。1992年の全日本F3第8戦SUGOでは、決勝レースでデレック・ヒギンズ
経歴
フォーミュラカー
マカオグランプリでは1989年に3位表彰台、1991年のレースではポールポジションを獲得、続く1992年には優勝を獲得する活躍を見せた。
1989年のシーズン終盤にはキャメルEJR(エディ・ジョーダン・レーシング)より国際F3000選手権にスポット参戦した。これはF1ティレルのレギュラーシートを獲得しF3000を卒業したジャン・アレジの代役参戦だった。1992年の全日本F3000選手権では1カー体制での参戦だったセルモのシートを得て参戦し、第2戦富士ではポイントを獲得。しかし、第4戦鈴鹿でリデルに代わってスポット参戦した小河等[2]が第1コーナーで発生した高速でのクラッシュにより事故死、マシンも全損となったため以後の参戦が休止された。これがフォーミュラでの最後の年となった。 1994年に日本からヨーロッパへと戻り、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)への参戦を開始した。 初年度はボルボが投入した車がレースに不向きなステーションワゴンタイプだったこともあり苦戦を強いられたが、翌年はセダンタイプが投入されたため、リデルは24レース中13レースでポールポジションを獲得するという、圧倒的な速さを見せつけた。しかし、リデルはスタートを苦手としており、せっかくのポールポジションをフイにすることもしばしば見られた。そのため、優勝はポールポジション獲得回数を大きく下回るわずか4回に留まり、また、終盤ボルボが不調に陥ったこともあり、最終的なランキングも3位に終わった。 BTCCでは、この後も1996年、1999年、2000年はいずれも3位で終えており、チャンピオン争いには絡むものの、最終的にそれを逃すというシーズンを多く送ったが、1998年には念願のタイトルを獲得している[3][4]。 2001年は、ヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)への参戦準備を始めたボルボのためツーリングカーから一時離れ、FIA GT選手権にプロドライブチームから参戦した。リデルはA1リンクとハラマのレースにおける優勝に貢献し、同チームはフェラーリ・550マラネロ勢の中ではトップとなるランキング5位を獲得した。 2002年以降はETCCに参戦し、2004年にチームをセアトに移し、2005年に同選手権が世界ツーリングカー選手権(WTCC)となり、以後2シーズンに渡って走った。2007年は同選手権におけるセアトの活動縮小に伴い一旦シートを失ったため、またしても一時ツーリングカーを離れ、アストンマーティンのワークスチームからル・マン24時間レースに参戦。総合5位、GT1クラス優勝という結果を残した。WTCCにもル・マン後に地元スウェーデンで開催されたレースでシボレーからスポット参戦し、第2レースを劇的な追い上げの末に優勝。その後、シーズン終盤にはBMWと僅差でタイトル争いを繰り広げていたセアトから請われてチームに復帰した(WTCCで1シーズンの間に複数のチームから参戦した初の例)。 2012年以降はフルタイムでの参戦ではなくスポット参戦となり、2016年に引退を表明した[5]。 引退後は、フォーミュラ1中継のアナライズ・コメンテイターなどを務めている[6]。 年チームシャシエンジンクラス123456789101112131415161718順位ポイント
ツーリングカー
レース戦績
イギリス・フォーミュラ3選手権
1988年ピッコ・トロベリ・レーシング