リカルド・ゾンタ
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リカルド・ゾンタ

基本情報
フルネームルイス・リカルド・ゾンタ
略称表記ZON
国籍 ブラジル
出身地同・パラナ州クリチバ
生年月日 (1976-03-23) 1976年3月23日(48歳)
F1での経歴
活動時期1999-2001, 2004-2005
過去の所属チーム'99-'00 BAR
'01 ジョーダン
'04-'05 トヨタ
出走回数36
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数0
通算獲得ポイント3
ポールポジション0
ファステストラップ0
最終戦2005年アメリカGP
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ルイス・リカルド・ゾンタ(Luiz Ricardo Zonta, 1976年3月23日 - )は、ブラジルパラナ州クリチバ出身のレーシングドライバーである。
プロフィール

父親のパウロはダートレースを趣味とするアマチュアドライバーで、同時にゾンタが幼少期を過ごした時期は、ブラジル国籍のF1チームフィッティパルディも存在しており、ネルソン・ピケアイルトン・セナが活躍していた時期でもあり、そうした影響からゾンタはレースに興味を持つようになった。
初期の経歴

1987年、10歳の時に父親からカートを与えられ、初めて参戦したカートレースで優勝した。翌1989年は地元クリチバのカート選手権でランキング2位となり、1990年にはパラナ州選手権でチャンピオン、さらに1991年にはブラジルカート選手権を制した。1992年にはサンパウロカート選手権を4位で終えているほか、気まぐれ的にツーリングカーレースにも数戦のみ参戦している。

1993年にフォーミュラカーレースにステップアップし、フォーミュラ・オペルを1年戦った後、1994年にはブラジルF3選手権に参戦。翌年にはブラジルF3選手権と南米F3選手権でともにチャンピオンとなる。

1996年、ヨーロッパへと移り、ドラコレーシングに所属し国際F3000への参戦を始め、初年度はランキング4位、翌1997年にはチャンピオンに輝いた。

1997年はF1のジョーダンチームとテストドライバー契約を結んでいたが、1998年については、1996年から始まった国際ツーリングカー選手権(ITC)にメルセデス・ベンツから参戦していたためもあって、メルセデスと関係の深いマクラーレンとの間でF1テストドライバー契約を結ぶこととなる。

レースドライバーとしては1998年はFIA GT選手権(GT1クラス)に大ベテラン、クラウス・ルドヴィックとのコンビでAMGメルセデスチームから参戦し、その年のチャンピオンとなった。

こうした経歴から将来を嘱望され、FIA-GT選手権を制した1998年10月、翌年からのF1参戦を目指していたブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)との間で正ドライバーとしての契約を結び、F1デビューにこぎつける。
F1以後

1999年にBAR・スーパーテックからジャック・ヴィルヌーヴのチームメイトとして新チームとともにF1デビューを飾った。

しかしながら、同チームが用意したB・A・R 001シャシーは戦闘力、信頼性ともに欠けており、1年を通して苦戦を強いられた。加えてデビュー2戦目の地元ブラジルGPでフリー走行中のアクシデントにより足を負傷したことで、ブラジルGP予選・決勝に加えて第3戦から第5戦までの3戦を欠場せざるを得なくなる災難にも見舞われた。第12戦ベルギーGP予選ではスパ・フランコルシャンの名物コーナーであるオー・ルージュで大クラッシュを演じてもいる(チームメイトのヴィルヌーヴも全く同じ場所で同じ形のクラッシュをしているため、車体の問題が疑われた)。結局、F1デビュー年はヴィルヌーヴともども入賞すら一度も果たせずに終わる。

2000年もBARチームに残留。この年はチームがホンダエンジンを得たこともあって、開幕戦オーストラリアGPでヴィルヌーヴ(4位)とのダブル入賞となる6位でいきなり初のポイント獲得を果たすなど、3回の入賞を記録し、年間ランキング13位でシーズンを終えた。なおこの年、前年に大クラッシュを演じたスパ・フランコルシャンにおいて、トップから周回遅れのゾンタを挟んでミカ・ハッキネンミハエル・シューマッハを追い抜いた際、「20世紀最高のオーバーテイク」とも謳われるほどの追い越し劇が行われたが、両者に挟まれる形で周回遅れにされたゾンタは、結果的にこのパッシングショーを「世界で最も近い場所で見届けた観客」となった[1][2]

2001年はレギュラーシートを失い、ジョーダンに移籍して再び同チームのテストドライバーの座に就く。このシーズン、ハインツ=ハラルド・フレンツェンがフリー走行でのクラッシュの影響でレース出場を取り止めたカナダGPと、フレンツェンが解雇された直後のドイツGPの2戦に代役で出走した。

2002年から2003年にかけてはF1から一時離れ、スペインワールドシリーズ・バイ・ニッサンに参戦。2002年には同シリーズのチャンピオンを獲得した。
テストドライバー
2005年アメリカGP

2003年途中から、今度はトヨタのテストドライバーという形でF1への復帰を果たす。

2004年もトヨタのテストドライバーを務めたが、この年の規則改正により、「第3ドライバー」として各グランプリの金曜フリー走行でサーキットを走りデータ収拾に努めた。シーズン後半、第12戦ドイツGP後にクリスチアーノ・ダ・マッタが解雇されると、その代役として5レースでシートを得る。波乱の展開となったベルギーGPではレース終盤まで4位走行し、久しぶりのポイント獲得が期待されたが、惜しくもマシントラブルによりリタイアを喫してしまう。シーズン終盤の日本GPでは翌年から移籍することとなっていたヤルノ・トゥルーリにシートを譲ったが、最終戦を待たずに日本GPでオリビエ・パニスが引退したために、最終戦の母国ブラジルGPに再び出走した。

2005年は同じくトヨタの第3ドライバーとして、前年同様金曜フリー走行に出走していたが、アメリカGPでラルフ・シューマッハがフリー走行中のクラッシュの影響で欠場することとなった為、その後の予選から代役を務めることとなったが、レースはミシュランタイヤがレース走行に耐えられないという問題が発生し、他のミシュランタイヤ使用チームと同様にフォーメーションラップ終了後にレース撤退を余儀なくされた。

2006年もトヨタチームに残留し、同チームにおける4年目のシーズンを過ごしたが、前年にチームがランキング4位を得たため、この年は第3ドライバーとして金曜フリー走行に出走する機会も与えられず、表舞台に出ることはなかった。

2007年は、トヨタチームを去りルノーF1チームとテストドライバー契約を結んでいる。しかしながら、F1の新たな規則改正によりテスト走行の機会が極めて限られるためもあって、ルノーでの仕事と並行して母国ブラジルのストックカー・ブラジル選手権に参戦することを表明しており ⇒[1]、フルタイムのレースドライバーとしては、ワールドシリーズ・バイ・ニッサン以来、実に4年振りにサーキットに復帰することとなる。以降2009年まではプジョー、2019年まではシボレーを駆り、数勝を挙げているものの、チャンピオン争いに加わるほどの戦闘力を見せることはできていない。2020年からはTOYOTA GAZOO Racing Brazilカローラに切り替え、実に14年ぶりにトヨタ車で参戦することになった。
レース戦績
フォーミュラ
国際F3000選手権

年チーム12345678910順位ポイント
1996年ドラコ・エンジニアリングNUR
RetPAU
3PER
RetHOC
6SIL
3SPA
9MAG
RetEST
1MUG
1HOC
114位27
1997年スーパーノヴァ・レーシングSIL
DSQHEL
RetPAU
RetNUR
1PER
2HOC
1A1R
2SPA
5MUG
1JER
Ret1位39


太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

F1

年チームシャーシ12345678910111213141516171819順位ポイント
1999年B・A・R01AUS
RetBRA
DNQSMRMONESPCAN
RetFRA
9GBR
RetAUT
15GER
RetHUN
13BEL
RetITA
RetEUR
8MAL
RetJPN
1223位0
2000年002AUS
6BRA
9SMR
12GBR
RetESP
8EUR
RetMON
RetCAN
8FRA
RetAUT
RetGER
RetHUN
14BEL
12ITA
6USA
6JPN
9MAL
Ret14位3
2001年ジョーダンEJ11AUSMALBRASMRESPAUTMONCAN
7EURFRAGBRGER
RetHUNBELITAUSAJPN19位0
2004年トヨタTF104BAUS
TDMAL
TDBHR
TDSMR
TDESP
TDMON
TDEUR
TDCAN
TDUSA
TDFRA
TDGBR
TDGER
TDHUN
RetBEL
10ITA
11CHN


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