リオグランデ・ド・スル州
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リオ・グランデ・ド・スル州
Estado do Rio Grande do Sul


(旗)(紋章)

行政府所在地ポルト・アレグレ
最大都市ポルト・アレグレ
面積281,748.538 km2
自治体数497
人口1069万3929人(2010年)[1]
人口密度37.96 人/平方キロメートル(2010年)[1]
GDP
 - 1人当たり3578億16百万レアル(2014年)
3万1927レアル(2014年)
ISO 3166-2:BRBR-RS
標準時UTC-3
ウェブサイト ⇒www.rs.gov.br

リオグランデ・ド・スル州(リオグランデ・ド・スルしゅう、Estado do Rio Grande do Sul)は、ブラジルの最南端に位置するである。北にサンタ・カタリーナ州、南にウルグアイ、西にアルゼンチンと国境を接しており、東は大西洋に面する。州都はポルト・アレグレ。ブラジル国内での発音は「リオグランジ・ド・スウ」

ガウーショ(牧童)によるブラジルを代表する料理シュハスコと、航空会社ヴァリグ・ブラジル航空の発祥地であり、ワインの生産も盛んである。略称は「RS」であり、州名はポルトガル語で南の大きな川を意味する。日系ブラジル人による現地日本語媒体による表記は「南大河州」である。

逆に「北の大きな川」を意味する名前のリオグランデ・ド・ノルテ州(Rio Grande do Norte)がブラジル北東部にある。略称は「RN」。目次

1 歴史

2 地理

2.1 気候

2.2 州内の主要都市


3 経済

4 住民

5 教育

6 文化

7 日本との関係

7.1 日本の姉妹都市・提携都市


8 脚注

9 関連項目

歴史 イエズス会のサン・ミゲル・ダス・ミソンイス廃墟。1983年に世界遺産に登録されている。

州の極西部には17世紀ブラジルのイエズス会グアラニー族に対する伝道または征服(aldeias)の名残が存在する。地域にとって重要なことに、イエズス会の教父ロケ・ゴンサレス、ロケ・ゴンザレス・デ・サンタ・クルスとしてもまた知られている、は特筆されるべきであり、彼は1626年5月3日にパラグアイから到着し、サン・ニコラウ伝道地を建設し、白人として最初に今日リオ・グランデ・ド・スル州として知られる領域に到達した人物となった。グアラニー伝道所消滅の後に残された全ての遺跡の中で、最も重要なものの一つであるサン・ミゲル、またはサン・アルカンジョは、現在のサント・アンジェロの近くに存在している。音と光 (ポルトガル語では Som e Luz) のショーがサン・ミゲル教会の廃墟で行われている。

1738年に領域(今日のサンタ・カタリーナ州を含む)は王領カピタニアとなり、リオデジャネイロの属領となった。スペインとポルトガルの国境紛争はスペイン人にリオ・グランデ(カピタニアの首都だった)と近隣地域を1763年から1776年まで占領させ、1776年にポルトガル領に復帰した。1763年のリオ・グランデ占領はパトス湖の上流のヴィアマンにあった政府の移転をもたらした。すなわち、ポルト・ドス・カザエスがポルト・アレグレに改名されて首都となった。1801年のスペインとポルトガルとの戦争に関するニュースは、リオ・グランデの住民に1763年以来スペイン人が領有していた7つの布教地といくつかの国境の要塞を攻撃させ、占領させたが、1801年以来、1777年に条約によって確立された国境に変更はなかった。

サンタ・カタリーナとリオ・グランデの地区は1760年に軍事上の都合によって分離され、1807年に後者はサン・ペドロ・ド・リオ・グランデとしてカピタニア=ジェラールのカテゴリに登録され、リオデジャネイロからの独立し、サンタ・カタリーナを従属させた。1812年にリオ・グランデとサンタ・カタリーナは二つの異なったコマルカが組織され、後者は1822年にブラジル帝国が組織された際に独立した州となった。

このように、初期の歴史において主に田園地帯だったのにも関わらず、コロニア・デル・サクラメントを巡るスペインとポルトガルの紛争とグアラニー伝道地戦争によって、リオ・グランデ・ド・スルの大草原は血塗られた戦争の舞台となった。また、元来この地域の一部はウルグアイの領域(バンダ・オリエンタル)の一部だったが、ウルグアイの独立における混乱の最中にウルグアイはこの地域を喪失した。ブラジルを破りたがっていたアルゼンチンの助けがなければ、ウルグアイはリオ・グランデ・ド・スルの全ての領域を失う可能性があった。独立後の19世紀には国内の反乱の焦点にもなった。1835年に分離主義運動が州内で勃発し、10年間続いた。ファラーポス戦争は結局軍隊と武器ではなく、金銭と恩赦によって終結したが、州は大きな混乱に苦しみ、長らくそれは回復しなかった。ジュゼッペ・ガリバルディヨーロッパに帰還し、出身地イタリアの英雄になる前に分離主義者に加っていたことは興味深いことである。

1865年にパラグアイ軍が州に侵攻し、8月5日にウルグアイアナの町を占領した。しかしながら、翌年の9月、パラグアイのエスティガリビア将軍は戦うことなくして降伏-三国同盟戦争においては稀な事態-した。

リオ・グランデ・ド・スルではしばしば政治的扇動が発生したが、重要な革命は1845年のポンシェ・ヴェルデ協定の後、フロリアーノ・ペイショト将軍-彼の考えがたい州政府への干渉はグメルシンド・サライーヴァの下での1892年から1894年までの反乱につながった-がリオデジャネイロの政権を奪取するまで起きなかった。この混乱の中で革命家はサンタ・カタリーナとパラナを占領し、クリチバを攻略したが、結局、彼らが軍需品を入手出来なかったために打倒された。この混乱における事件はサルダーニャ・ダ・ガマ提督の死であり、ブラジル海軍の将校であり、1893年から1894年の海軍の反乱の首謀者の一人だった彼は、ウルグアイの国境付近で紛争終結間近に小競り合いの中で死亡した。

1930年にブラジルの独裁者となり1950年に再選されたジェトゥリオ・ヴァルガスは、リオ・グランデ・ド・スル出身だった。
地理

州の北部はサンパウロ州南部からパラナ州サンタ・カタリーナ州を通って延びているブラジル高原の丘陵地帯に位置しており、多くが低い山脈によって途切れている。低い山脈はセラ・ド・マールの延長であり、サンタ・カタリーナ州からウルグアイまで続いている。州の1/3を占める南部はラ・プラタ盆地に位置しており、ウルグアイ、アルゼンチンに続くパンパの始まりとなっている。

州内にはパトス湖メリン湖などの湖が存在し、ジャグアロン川、イビクイ川などの河川が流れている。州西端のウルグアイ川はアルゼンチンとの国境を形成している。
気候

リオ・グランデは、南温帯地域に位置し、亜熱帯性気候である。比較的顕著な四季があり、降水量は一年を通して均等であるものの、旱魃が起きることもある。冬期の数ヶ月間(6月から9月)は、大雨とミヌアノスと呼ばれる氷点下にまで温度を下げる冷たい南西の風によって特徴付けられ、特に山の多い自治体では、雪が降ることもある。夏の気温は 30℃(86°F) にまで上昇し、日射病も稀ではない。
州内の主要都市 リオグランデ・ド・スル州都 ポルト・アレグレ

ポルト・アレグレ州都


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