リエカ
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リエカ
Rijeka

リエカ市街


市旗市章

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度19分38秒 東経14度26分33秒 / 北緯45.32722度 東経14.44250度 / 45.32722; 14.44250
行政
クロアチア
 プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡
 市リエカ
市長Vojko Obersnel
地理
面積 
  市域44 km2
人口
人口(2011年現在)
  市域128,735人
    人口密度  2,926人/km2
  都市圏213,842人
    都市圏人口密度  259人/km2
  備考[1]
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号51 000
市外局番051
ナンバープレートRI
公式ウェブサイト : ⇒http://www.rijeka.hr/

リエカ(クロアチア語:Rijeka [rij??ka] リイェ(ー)カ)は、クロアチアの都市。アドリア海クヴァルネル湾に面するクロアチア有数の港湾都市。プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。過去イタリア領だったこともあり、イタリア語でのフィウメ/フィウーメ[2](Fiume [?fju?me])の呼び名も通じる。リエカもフィウメも共に「川」を意味する。
地勢・産業

イストリア半島(イストラ半島)東側の付け根にある港湾都市。物流の拠点として重要な役割を占めるほか、工業も盛ん。イタリア、スロヴェニア国境に近く、約65キロ北西にはイタリアのトリエステが位置している。
歴史時計塔トルサット要塞
古代から中世

新石器時代の定住地跡がフィウメ周辺で見つかっており、この地で最古の定住地は丘の上にあったケルト系のタルサティカ(現在の市内のトルスト付近)、そして天然港の上に住んでいたのは船乗りを生業としていたイリュリア人の一部族、リブルニ族であった。フィウメは長い間、丘と海の2つに定住地が分かれるという特徴を保った。

アウグストゥス帝時代、ローマ帝国は現在のリェツィナ川右岸に、ムニキピウムとしてタルサティカを再建し、名をフルメン(Flumen)とした。プリニウスもタルサティカについて触れている。

5世紀以降、東ゴート王国東ローマ帝国ロンゴバルド王国アヴァール族フランク王国、そしてクロアチア人マジャル人と支配者は変わり、1466年以後はハプスブルク家の支配下に入った。アドリア海で最も強力な海洋国家・ヴェネツィア共和国は、1508年に短期間フィウメを支配したのを最後に、その後支配は及んでいないが、その後2度フィウメを掠奪した。

4世紀以後、フィウメは聖ヴィトゥスを守護聖人とした。ラテン語でテーラ・フルミニス・サンクティ・サンクティ・ウィティ(Terra Fluminis sancti Sancti Viti)、ドイツ語でザンクト・ファイト・アム・プフラウム(Sankt Veit am Pflaum)と呼ばれた。中世のクロアチア語名はリカ・スヴェトガ・ヴィダ(Rika svetoga Vida、聖ヴィトゥスの川)であった。

中世のフィウメは、周囲を城壁で囲まれた封建的な要塞であった。市中心部の高台には砦があった。どっしりとした城壁でどんな外敵からも守られていたが、敵は内部で暮らすフィウメ市民であった。
ハプスブルク家の支配1900年のリエカ

1723年にフィウメに自由港が建設され、18世紀から19世紀までのフィウメは、1870年オーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国へ移るまで、ハプスブルク領オーストリア、クロアチア、ハンガリーと宗主国が移り変わった。クロアチアはハンガリー王国を構成する自治地域であったが、その中にあってフィウメはクロアチアからも独立した自治都市であった。ハンガリー政府から任命された総督が直接フィウメを治め、フィウメはハンガリー王国唯一の国際港となった。オーストリアの国際港トリエステ、ハンガリーの海港フィウメとの間には競争があった。19世紀初頭、フィウメの経済的・文化的指導者は、貿易業者アンドリヤ・リュデヴィト・アダミッチであった。フィウメには規模の大きな海軍基地があった。19世紀半ばにはそこにオーストリア=ハンガリーの海軍兵学校が置かれ、士官の育成が行われた。

1872年から1896年までフィウメ市長を務めたジョヴァンニ・デ・キオッタは、最も権威ある地方の政治指導者だった。彼の指揮のもと、都市拡張の印象的な過程が始まり、主要港としての開発が始まり、オーストリア=ハンガリー鉄道網とフィウメの接続、国際貿易の拡張が行われた。ハンガリーの王立海運会社アドリア、リェツィナ谷にある製紙工場といった現代産業及び商業会社は、フィウメのトレードマークとなった。

1866年、スタビリメント・テクニコ・フィウマーノ(オーストリア=ハンガリー海軍にエンジンを供給していた会社)のマネージャー、ロバート・ホワイトヘッドは、世界初の魚雷実験を行った。1880年にわずか21,000人だった人口は、1910年には50,000人となった。多くの主要な公共建築はこの時代に建てられた。アラヨス・ハウスマンの建てた総督宮殿もその1つである。のちのニューヨーク市長フィオレーロ・ラ・グアルディア20世紀初頭にアメリカ領事館員としてフィウメで暮らし、地元のサッカークラブでプレーしていた。
イタリア・ユーゴ間の対立と自由都市フィウメフィウメ自由市の旗

第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉は、クロアチア人上流階級と、フィウメの行政を握るイタリア人との対立を招いた。


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