この項目では、フランス共和国の国歌について説明しています。その他の名称については「ラ・マルセイエーズ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
La Marseillaise
和訳例:ラ・マルセイエーズ
ラ・マルセイエーズを初披露する
ルジェ・ド・リール大尉
国歌の対象
フランス
フランス領ギアナ
フランス領ポリネシア
グアドループ
マルティニーク
マヨット
ニューカレドニア
レユニオン
サン・バルテルミー
サン・マルタン
サンピエール・ミクロン
ウォリス・フツナ
以前まで、国歌であった国・地域
フランス領インドシナ
トンキン保護国
『ラ・マルセイエーズ』(仏: La Marseillaise、フランス語発音: [la ma?s??j?z] ⇒発音例)、または『マルセイユの歌』は、フランスの国歌である。元はフランス革命の際の革命歌で[1]、マルセイユの連盟兵(義勇兵)が隊歌として歌って広めたことによる。 この歌は、フランス革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、市長フィリップ=フレデリク・ド・ディートリヒ男爵 (Philippe Friedrich Dietrich
概要「ラ・マルセイエーズ」の楽譜
作曲の経緯
その後、この歌は全国にパンフレットという形で流布され、8月10日事件(テュイルリー宮殿の襲撃)の約2週間前にマルセイユ連盟兵がパリ入城したときに口ずさんでいたことをきっかけとしてパリ市民の間で流行した。このために元々の題名ではなく、現在の『ラ・マルセイエーズ[注釈 1]』という形で定着した。さらに1795年7月14日に国民公会で国歌として採用されたのである。
初期出版の楽譜に作曲者名が記されていないことなどから、作曲者は不明とされるが、ルジェ・ド・リールの別の詩ギリシャ国歌『自由への賛歌 (L'Hymne a la Liberte) 』に曲を付けたことのある作曲家イグナツ・プライエルこそが真の作曲者ではないかという異説もある。また、現在7節あるうちの最後の節(「子供の歌」)は同年10月に付け加えられ、ジャン=バティスト・デュボワ、マリー=ジョゼフ・シェニエ(詩人)、デュボワ神父の作だと言われているが、フランス政府の公式見解としては7番(7節)の歌詞は作者不詳とされている。 1804年、ナポレオン・ボナパルトが皇帝になると「暴君(僭主)を倒せ」という部分の暴君(ティラン)は世襲君主全般を指すことから、国歌を『門出の歌』に変更し、『ラ・マルセイエーズ』は第一帝政から復古王政にかけては、特別な許しがある場合を除いては公の場で歌うことは禁止されていた。1830年の7月革命以降は晴れて解禁となり、同年にベルリオーズが独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲を施した。ナポレオン3世による第二帝政時には再び禁止され、第三共和政下でも強すぎる革命のイメージから政府に忌避されたが、これ以上に国民に人気と知名度がある歌がなく、1879年に再び国歌と定められた。
フランス国歌になるまで