ラヴェンナ総督府
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ラヴェンナ総督府
.mw-parser-output span.smallcaps{font-variant:small-caps}.mw-parser-output span.smallcaps-smaller{font-size:85%}Exarchatus Ravennatis


584年?751年
 

 

 



600年ごろのラヴェンナ総督領(茶)と東ローマ帝国(桃)。
首都ラヴェンナ
政府総督府
歴史・時代中世前期
 ? ランゴバルド人のイタリア侵入568年
 ? 総督府の設立584年
 ? ラヴェンナ陥落751年
現在 クロアチア
 フランス
 イタリア
 サンマリノ
 スロベニア
 バチカン市国

ラヴェンナ総督府(ラヴェンナそうとくふ、ラテン語: Exarchatus Ravennatis)もしくはイタリア総督府 (イタリアそうとくふ、イタリア語: Esarcato d'Italia) は、東ローマ帝国イタリア半島統治のためにラヴェンナに設置した政府機関。584年に設立され、751年に最後の総督(エクザルフ)がランゴバルド人に倒されるまで存続した[1]ユスティニアヌス1世がより効率的な西方統治のために設置した、アフリカ総督府(英語版)と対になる総督府である。目次

1 背景

2 ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立

3 総督府の概要

4 終焉とその後

5 ラヴェンナ総督の一覧

6 脚注

7 参考文献

背景

402年、西ローマ皇帝ホノリウスは首都をローマからラヴェンナに移した。アドリア海に面した良港があり、また陸上では沼沢に囲まれ防衛に有利だったためである。476年の西ローマ帝国滅亡後、オドアケル東ゴート王国を建てたテオドリックもラヴェンナを首都とした。

ゴート戦争中の540年、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスがラヴェンナを占領し、ここをイタリア統治の拠点とした。この頃の東ローマ帝国のイタリア支配体系は、かつてディオクレティアヌス帝が整備し、オドアケルや東ゴート人も利用した制度をそのまま踏襲した制度であった。
ランゴバルド人の侵攻と総督府の成立 590年のイタリア。帝国領(橙)ランゴバルド領(緑)

568年、アルボイン率いるランゴバルド人とその同盟部族集団が北イタリアに侵攻した。この地域は554年まで20年近くにわたり続いたゴート戦争による荒廃からほとんど復興していなかった。東ローマ軍の抵抗は弱く、569年にはメディオーラーヌム(ミラノ)を奪われた[2]。さらに3年間の包囲戦の末572年にパヴィーアを落としたランゴバルド人は、ここをランゴバルド王国の首都とした[3]。数年のうちにファロアルド1世やゾットらランゴバルド人が中央イタリア南イタリアを征服し、それぞれスポレート公国ベネヴェント公国を建てた[4]。しかし572年にアルボインが、574年にその後継者クレフが暗殺されランゴバルド王国が諸公の時代に入ると、ランゴバルド人の勢いが一時的に弱まった。

これを好機と見た皇帝ユスティヌス2世は娘婿のバドゥアリウスをイタリアに派遣したが、バドゥアリウスはランゴバルド人に敗れ戦死した[5]。またバルカン半島も混乱の渦中にあり、もはや東ローマ帝国はイタリア政策に注力することができなくなった。ランゴバルド人に食い破られた帝国領イタリアは飛び地ばかりとなり、580年にティベリウス2世はイタリアの大部分を喪失した事実を認め、イタリアの領土を5つの州(エパルキエス)に分割した。すなわちアンノナリア(ラヴェンナ)、カラブリアカンパニアエミリア、ウルビカリア(ローマ周辺)である。6世紀が終わるまでに、この5州ではそれぞれ新たな支配体系が成立した。ラヴェンナには総督府がおかれ、総督にはラヴェンナ市、港、その周辺(北はポー川ヴェネツィア公国に接し、南はマレッキア川でペンタポリス公国に接する領域)における、内政と軍事、教会管理の権限が与えられた[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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