ラヴィング対ヴァージニア州裁判
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ラヴィング対ヴァージニア州事件
合衆国最高裁判所
弁論:1967年4月10日
判決:1967年6月12日
事件名:Richard Perry Loving, Mildred Jeter Loving v. Virginia
判例集:388 U.S. ⇒1 (リスト)
87 S. Ct. 1817; 18 L. Ed. 2d 1010; 1967 U.S. LEXIS 1082
弁論 ⇒口頭弁論
裁判要旨
異人種間の結婚を禁止することは、アメリカ合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に違反する。
裁判官

首席判事
アール・ウォーレン

陪席判事
ヒューゴ・ブラック · ウィリアム・O・ダグラス
トム・C・クラーク · ジョン・M・ハーラン (2世)
ウィリアム・J・ブレナン・ジュニア · ポッター・スチュワート
バイロン・ホワイト · エイブ・フォータス

意見
多数意見ウォレン
賛同者:満場一致
同意意見スチュワート
参照法条
アメリカ合衆国憲法修正第14条; Va. Code §§ 20-58, 20-59
この判決は以下の過去判決を覆した
ペイス対アラバマ州 (1883)

ラヴィング対ヴァージニア州裁判(ラヴイングたいヴァージニアしゅうさいばん、英語: Loving v. Virginia、388 U.S. 1 (1967))は、異人種間結婚について、1967年6月12日合衆国最高裁判所が行った裁判である。公民権に関しての画期的な判決であり、異人種間結婚を禁じる法律を無効にするものであった。
背景

「異人種間混交」を示す"Miscegenation"という語は異人種間の結婚の他、同棲や性関係などをも広く包含する概念である。アメリカ合衆国における異人種間結婚禁止法(英語版)は、植民地時代から一部の州で制定されてきたものであった。奴隷との結婚は一度も合法になったことがなかった。1865年、レコンストラクション期に黒人法(Black Codes)により、ローワー・サウスの7州で異人種間結婚が非合法化された。新しい共和党立法府により、6州で禁止法が撤廃された。民主党が権力の座に戻ると、禁止法は再導入された。

白人男性が黒人女性との間に多くの子どもを作っている社会において、黒人と白人の間にどのように線を引くかは大きな関心事であった。一方では、ある人が黒人か白人かという判断は通常、実際的なことがらを処理する決め手になるが、他方、ほとんどの法は「一滴の血の掟」、つまりひとりでも黒人の祖先がいれば法的にある人が黒人になるという決まりを用いていた[1]。1967年の段階ではアメリカ合衆国南部のすべてにあたる16州が反異人種間混交法を制定していた[2]
概要

この訴訟は黒人女性であるミルドレッド・ラヴィングと白人男性であるリチャード・ラヴィングにより起こされたものであり、2人は結婚したためにバージニア州刑務所に1年間収監されるという判決を受けていた。2人の結婚はヴァージニア州の反異人種間混交規定である1924年人種統合法に反するものであり、この法は「白人」に分類される人々と「有色人種」に分類される人々の結婚を禁じたものであった。最高裁判所はペイス対アラバマ州(1883年)の判決を覆して全員一致でこの禁止規定は憲法に反しているとし、アメリカ合衆国における人種に基づく結婚規定を全て終わらせた。

この決定はアメリカ合衆国における異人種間結婚の増加に伴うものであり、6月12日は毎年ラヴィング・デイとして祝われている。この訴訟は複数の楽曲と3本の映画の題材になっており、その中には2016年の高い評価を受けた映画『ラビング 愛という名前のふたり』もある。2013年以降、この判決はアメリカ合衆国連邦裁判所がアメリカ合衆国における同性婚制限を差し止める判決において先行する判例として引用されており、その中には2015年のオーバーグフェル対ホッジス裁判における最高裁の判決も含まれる。
原告

ミルドレッド・ドロレス・ラヴィング(出生時の姓はジェター、1939年7月22日 ? 2008年5月2日)はミュージアル・(バード)・ジェターとシオリヴァー・ジェターの娘であった[3]。夫のリチャード・ペリー・ラヴィング(1933年10月29日 ? 1975年6月29日)は白人男性であり、ローラ・(アレン)・ラヴィングとトワイリー・ラヴィングの息子であった[4]。ミルドレッドはアフリカ系アメリカ人で、先祖にはチェロキーとラッパハノックのアメリカ先住民もいた[5][6][7]。ミルドレッドの人種は混乱のもととなった。裁判の間、とりわけ弁護士が関わっているかぎりでは、ミルドレッドが自身を黒人と考えていることが明らかになった。しかしながら、逮捕に際して警察はミルドレッドを「インディアン」だと規定して報告した。ミルドレッドは2004年のインタビューで、「私は黒人ではないのです」と述べている。混乱を増すことになった要因のひとつとして、ミルドレッドが逮捕された時は「黒人である以外ならなんであっても」得策に働くと考えられていたことがある[8]

リチャード・ラヴィングは1975年、ヴァージニア州キャロライン郡で車に乗っていた際、飲酒運転のトラックに衝突され、41歳で亡くなった[9]。ミルドレッド・ラヴィングも同じ事故で右目を失っている。ミルドレッドは2008年5月2日、ヴァージニア州ミルフォードで肺炎により68歳で亡くなった[10]。夫婦には3人子どもがいた[11]
刑事訴訟手続き

18歳の時、ミルドレッドは妊娠した。1958年6月、2人は結婚するためワシントンD.C.に旅し、そうやってヴァージニア州の1924年人種統合法を回避したが、この法は白人と非白人の結婚を犯罪化するものであった[12]。2人はヴァージニア州の小さな町であるセントラル・ポイントに戻った。匿名の通報にもとづいて1958年7月11日の早朝に地元の警察が夫妻の家を急襲したが、この時警察はやはりヴァージニアでは違法である異人種間の性交渉を2人がしていればよいと予想していたという[13][14]。警官がラヴィング夫妻がベッドで眠っているのを見つけた時、ミルドレッドは寝室の壁にあった結婚証明書を指さした。夫妻はこの証明書はコモンウェルスでは有効ではないと伝えられた。

ラヴィング夫妻はヴァージニア州法典20-58項及び20-59項により告発された。前者は異人種のカップルが州外で結婚してからヴァージニア州に戻ってくることを禁じるものであり、後者は異人種間混交を重罪として1年から5年の刑を科せるとするものであった。1959年1月6日、ラヴィング夫妻は「コモンウェルスの平和と尊厳に反して夫と妻として同棲した」罪を認めた。1年の刑を宣告されたが、ヴァージニア州を離れて最低25年間は一緒に戻ってこないという条件で刑の執行停止が認められた。有罪判決の後、夫妻はワシントンD.C.に移住した[15][16]
上訴手続き

1964年、ミルドレッド・ラヴィングはヴァージニア州の家族を訪問する際に一緒に旅ができないことや、ワシントンD.C.で社会的に疎外され、経済的にも苦境に陥ってしまったことに苛立ち、アメリカ合衆国司法長官ロバート・F・ケネディに抗議の手紙を書いた[17]。ケネディはミルドレッドをアメリカ自由人権協会(ACLU)に紹介した[13]。ACLUはボランティアの協力弁護士バーナード・S・コーエン(英語版)とフィリップ・J・ハーシュコップ(英語版)を割り当て、両名はヴァージニア州キャロライン郡巡回裁判所にラヴィング夫妻の代理として申し立てを行った。この申し立ては裁判所に対し、ヴァージニア州の反異人種間混交法はアメリカ合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に違反するという理由で刑事判決を無効とし、ラヴィング夫妻の有罪判決を破棄することを求めるものであった。


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