ランバル公妃マリー・ルイーズ
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マリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン
Marie-Therese-Louise de Savoie-Carignan
サヴォイア=カリニャーノ家
右の乳房を露出したランバル公妃の肖像。18世紀当時、乳房の露出は描かれた女性の無垢、健康及び受胎能力を表す美術表現であった[1]
ジョゼフ・デュプレシ画、ラ・クール・ドール博物館(英語版)蔵、制作年未詳

称号ランバル公妃
出生 (1749-09-08) 1749年9月8日
サルデーニャ王国トリノ、パラッツォ・カリニャーノ(英語版)
死去 (1792-09-03) 1792年9月3日(42歳没)
フランス王国パリ
埋葬 フランス王国、アンファン=トルヴェ墓地
配偶者ランバル公ルイ・アレクサンドル
家名サヴォイア=カリニャーノ家
父親カリニャーノ公ルイージ・ヴィットーリオ
母親クリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク
サイン
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マリー=テレーズ=ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニャン[2]: Marie-Therese-Louise de Savoie-Carignan, Princesse de Lamballe, 1749年9月8日 - 1792年9月3日)は、北イタリアのサヴォイア家の公女。隣国フランスの王室メンバーかつ同国最大の個人資産の相続予定者だったランバル公に嫁ぐが、すぐに死別した。ヴェルサイユ宮廷ではランバル公妃、カリニャン姫(Mademoiselle de Carignan)、ランバル夫人(Madame de Lamballe)の呼び名で知られた。

マリー・アントワネットの最初の寵臣であり、女官長よりも高位の王妃家政機関総監に任じられた。君寵がポリニャック夫人に移った後も変わらず王妃と王室への忠節を尽くし、そのため1792年の九月虐殺で命を落とした。
生涯
出生と結婚ランバル公妃マリー・ルイーズ(左)と義妹マドモワゼル・ド・パンティエーヴル(1767年)

マリー=ルイーズはサヴォイア家の分枝カリニャーノ公家の当主ルイージ・ヴィットーリオと、そのドイツ人の妻クリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルクの間の第6子・五女だった。父は当時のサヴォイア本家当主・サルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ3世の甥(異母妹の子)だった。母はカルロ・エマヌエーレ3世の最初の妻ポリクセナ王妃の妹だった。さらに母の別の姉カロリーネが、フランス王族のブルボン公ルイ・アンリに嫁いでいた関係で、フランス王室とも縁戚関係があった[3]。マリー=ルイーズの幼少期について詳しいことは不明である[4]

結婚適齢期になると、フランス王室の一員だったランバル公ルイ・アレクサンドルとの縁組が成立した。ランバル公は、太陽王ルイ14世と寵姫モンテスパン夫人の間の準正された婚外子トゥールーズ伯の孫である。フランス王ルイ15世は、花婿花嫁とも王室の分家出身で身分の釣り合いの取れた結婚が実現することに満足した。カルロ・エマヌエーレ3世も、サヴォイア家とフランス王家との縁組によるフランスとの同盟関係を長く欲しており、この政策はその後、ルイ15世とカルロ・エマヌエーレ両者の孫たちの間の複数の縁組によって強化されていく[4]盛り上げたプーフの髪型をした公妃、カレ画、1776年

1767年1月17日、トリノ王宮にてカルロ・エマヌエーレ3世臨席のもと代理結婚式(英語版)と披露宴が挙行された。同月24日、新婦はフランスとサヴォイア公領の国境であるル・ポン=ド=ボーヴォワザン(英語版)の橋でフランス側に引き渡され、イタリア人の家臣たちと別れて新しいフランス人の従者に連れられて、新郎とその父パンティエーヴル公爵の待つナンジ城(英語版)へ向かい、この城で1月31日正式な婚礼を挙げた[4]。2月に入ってマリー=ルイーズは初めてヴェルサイユ宮殿入りし、夫の叔母であるラ・マルシュ伯爵夫人の紹介で国王・王族に初めて謁見したが、このときヴェルサイユ宮廷の人々はマリー=ルイーズに好印象を抱いたという。新婚夫婦は美男美女で、互いの容姿に魅了されたため最初のうちは仲睦まじかった。しかしランバル公は結婚して1か月後には2人の女優との不貞を働き、マリー=ルイーズは深く傷ついた。落ち込んだ彼女を慰めたのは舅のパンティエーヴル公で、義理の父娘はこれを機に親密になった[4]

ランバル公は女遊びが祟って性病が悪化し、妻や妹の看病もむなしく、1768年5月6日ルーヴシエンヌ城(英語版)にて20歳で死去した[4]。マリー=ルイーズも夫から性病をうつされ、懐妊が望めない体になったとされる。

19歳で寡婦となったマリー=ルイーズは夫から相当額の遺産を譲られ、かなりの資産家となった。彼女は修道院に入ろうとしたが舅のパンティエーヴル公が反対し、自分の娘代わりに傍にいてくれるよう説得した。マリー=ルイーズは一人息子を亡くして落胆する舅を励まして、一緒に領地のランブイエでの大規模な慈善活動に没頭し、そのため公爵は「貧者の王」と、ランバル公妃は「パンティエーヴルの天使」と呼ばれて称賛された[4]。公妃は舅の所有するパリ市街のオテル・ド・トゥールーズ(英語版)と郊外のランブイエ城(英語版)を行き来する生活を送った。プーフの髪型をした公妃、リウー(フランス語版)画、制作年未詳

同じ1768年の7月に王妃マリー・レクザンスカが死ぬと、王女のマダム・アデライードは父ルイ15世王とうら若い未亡人ランバル公妃を再婚させようと画策した。権力を欲する王女は、父の再婚相手は若く美しく、そして野心のない女性が望ましいと考えていた。父王が若い後妻に夢中になって国務を自分に投げ出すことを期待していたのである。ランバル公妃を王妃に仕立てるアデライードの計画はノアイユ家一族の支持も得た[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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