ランドルフ・チャーチル_(1849-1895)
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イギリス政治家ランドルフ・チャーチル卿Lord Randolph Churchill

生年月日1849年2月13日
出生地 イギリスイングランドロンドン
没年月日 (1895-01-24) 1895年1月24日(45歳没)
死没地イギリス、イングランド、ロンドン
出身校オックスフォード大学マートン・カレッジ
所属政党保守党
称号枢密顧問官(PC)
配偶者ジャネット・ジェローム
親族第7代マールバラ公爵ジョン(父)
ウィンストン(長男)
インド大臣
内閣第一次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間1885年6月24日 - 1886年1月26日[1]
大蔵大臣
内閣第二次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間1886年8月3日 - 1886年12月23日[2]
庶民院議員
選挙区ウッドストック選挙区(英語版)[3]
南パディントン選挙区(英語版)[3]
在任期間1874年1月31日 - 1885年11月24日
1885年11月24日 - 1895年1月24日[3]
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ランドルフ・ヘンリー・スペンサー=チャーチル卿(: Lord Randolph Henry Spencer-Churchill, PC, DL, 1849年2月13日 - 1895年1月24日)は、イギリス政治家

ヴィクトリア朝保守党において、ディズレーリの「トーリーデモクラシー」の継承者を自任し、党執行部に従わない独自活動を行った。とりわけ保守党議会外大衆運動組織の影響力の拡大に力を注いだ。第一次ソールズベリー侯爵内閣インド大臣(在職1885年6月24日-1886年1月26日)、第二次内閣大蔵大臣(在職1886年8月3日-1886年12月23日)を務めるも、予算案をめぐって首相ソールズベリー侯爵に挑戦した結果、失脚した。

卿(Lord)の称号が付いているのは公爵の三男だからであり、法的身分は平民だった[注釈 1]

20世紀中期のイギリスの首相ウィンストン・チャーチルは息子である。
概要

1849年に第7代マールバラ公爵ジョン・スペンサー=チャーチルの三男として生まれる(→生誕)。イートン校からオックスフォード大学マートン・カレッジへ進学。1874年にアメリカ人投機家の娘ジャネット・ジェロームと結婚し、長男ウィンストンを儲けた(→ 政界入りまで)。

1874年の解散総選挙(英語版)でマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区(英語版)から保守党候補として出馬して庶民院議員に初当選した(→庶民院議員に初当選)。

1876年、兄ブランドフォード侯爵ジョージ皇太子バーティ(後のエドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで皇太子の逆鱗に触れ、一時国外へ逃れる羽目になった(→皇太子との対立)。その後首相ベンジャミン・ディズレーリの執り成しで帰国できたが、直後の1877年から1880年までアイルランド総督に就任した父マールバラ公爵の秘書としてアイルランドに派遣された(→アイルランド勤務)。

1880年自由党政権のウィリアム・グラッドストン内閣が発足すると、「第四党(英語版)」と呼ばれる保守党若手議員の小グループを形成し、グラッドストンに対して弱腰な保守党庶民院院内総務(英語版)サー・スタッフォード・ノースコート准男爵を差し置いて、強力なグラッドストン批判を展開して注目を集めた(→「第四党」)。

1881年に党首ディズレーリが死去すると「トーリー・デモクラシー」の後継者を自任し、より活発に独自活動するようになった。とりわけ保守党の議会外組織の権限を強化して一般党員の世論を党執行部に汲み上げることに尽力した。「宗教・国制・大英帝国護持」というディズレーリの思想を旗印にした保守党議会外大衆運動組織「プリムローズ・リーグ」の結成・指導にあたり、同組織を同時代最大の大衆組織に成長させた。既存の保守党議会外組織保守党協会全国同盟(英語版)(NUCA)でも活躍し、その影響力を拡大させるべく奔走した(→議会外大衆組織の育成)。

1885年6月の第1次ソールズベリー侯爵内閣インド大臣として入閣。ビルマへの軍事侵攻と同国の英領インド帝国への併合を実施した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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