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レディ・ランドルフ・チャーチル
Lady Randolph Churchill
個人情報
生誕Jeanette Jerome
(1854-01-09) 1854年1月9日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク、ブルックリン
死没Jennie Randolph Churchill
1921年6月29日(1921-06-29)(67歳没)
イングランド、ロンドン
国籍アメリカ合衆国、イギリス
配偶者ランドルフ・スペンサー=チャーチル卿(1874年 - 1895年; 死別)
ジョージ・コーンウォリス=ウェスト(1900年 ? 1914年; 離婚)
モンタギュー・フィッペン・ポーチ(1918年 - 1921年; 死別)
子供ウィンストン・チャーチル
ジョン・ストレンジ
ランドルフ・チャーチル夫人(Jeanette, Lady Randolph Churchill, 1854年1月9日 - 1921年6月9日)は、アメリカ生まれのイギリス人名士。最初の夫であるランドルフ・スペンサー=チャーチル卿との間にイギリス首相ウィンストン・チャーチルをもうけた。
結婚まではジェニー・ジェローム(Jennie Jerome)、結婚後はレディー・ランドルフ・チャーチル(Lady Randolph Churchill)と称した。短くジェニー・ランドルフあるいはジェニー・チャーチル(Jennie Churchill)とも呼ばれる。ジェニーはジャネット(Jeanette)の短縮形である。夫ランドルフ卿は第7代モールバラ公爵ジョン・スペンサー=チャーチルの三男であった。よって法的身分は平民であるが公爵家のヤンガーサンとして姓名に儀礼称号「卿」をつけて名乗る権利がある。その妻としての「レディ」の称号であり、貴族の夫人や令嬢としてのレディではない。
当時の最有力議員の1人ランドルフ卿の妻として夫と子の選挙運動を支え、2人の出世に大きく貢献した。チャーチルの研究者は、若きチャーチルが大物大臣になるまでの道は、この母の手腕に負うところが大きいと考えている。
独身時代アメリカ・ニューヨークの生家
アメリカの大富豪の家庭に4人姉妹の次女として生まれる。ジェニーの父レナード・ジェロームは、18世紀初めにアメリカに移民したフランス系ユグノーの血を引く銀行家だった。ジェニーの名前は、父が大のオペラ好きであったことからソプラノ歌手ジェニー・リンドにちなんでつけられたという。
19歳の時、父の所有する競艇場で、ランドルフ・スペンサー=チャーチル(第7代マールバラ公ジョン・スペンサー=チャーチルの三男)を紹介されて、1874年にパリのイギリス大使館で結婚する。
新郎新婦は、初めて会ってから3日もせずに結婚を決めたが、当初は両家が反対したために数か月遅れることになった。
この結婚によって、ジェニーは「レディ・ランドルフ・チャーチル」の名前を得て、日常の場面ではレディー・ランドルフとして言及されるようになる。
結婚後1889年、息子たちと
ジェニーは結婚から32週と5日で長男ウィンストン・チャーチル(1874年 - 1965年)を出産した。
通常よりも2ヶ月早いが、チャーチルの伝記作家は未熟児だったとは考えておらず、ジェニーが結婚する前に妊娠したと考えている。
当時の上流階級のならいとして、子育ての大部分は乳母が行い、ジェニーは育児にほとんど関わらなかった。ウィンストンは乳母のエヴェレスト夫人を大変慕ったが、同時に母を崇拝しており、寄宿制のハーロー校へ入学してからおびただしい量の手紙をジェニーへ送り、彼を訪ねてくれるように求めた。しかし彼女は滅多にウィンストンを訪問しなかった。ウィンストン・チャーチルは自伝で「彼女は夜空の星のようだった。私は心から彼女を愛したが、彼女は遠くに隔たっていた」と書いている。
しかしジェニーは、母としては学業から健康まで気を配り事細かに助言を与え、チャーチルと厳格な父ランドルフ卿との間を取り持ち、手紙のやり取りを通じてチャーチルを見守っていた。そして成人したウィンストンとジェニーは良い友人となり、強い絆で結ばれた。
ウィンストンにとって、ジェニーは政治的な師であり、母というよりは姉として見ていたようである。
また大物議員の妻としては、ジェニーは夫を出世させるために活発に運動し、選挙事務の細々した手配、議会演説の代筆、有力者との調整まで行い、イギリス上流階級や政治サークルの中に入り、最も高位の人々と社交を深めた。ジェニーは結婚して以降、イギリスの全総理大臣、全ての閣僚と友人になったと言われる。
一方で、ランドルフ夫婦は子供をなかなか作らなかった。理由は諸説あるが一つには結婚後まもなく夫が深刻な体調不良に悩まされるようになったためとも言われている。そしてウィリアム・マンチェスターによれば、ジェニーはその代わりに数多くの貴族と愛人の関係になった。このためジェニーの姉妹は、第二子ジョン・ストレンジ(1880?1947)を身ごもった時も近衛隊のイングランド貴族エヴリン・ボスコーエンの子だったと信じていた。この第二子ジョンも懐妊の時期が正確であれば早産だったことになる。