ランディ・マイズナー
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ランディ・マイズナー
Randy Meisner
出生名Randy Herman Meisner
生誕 (1946-03-08)
1946年3月8日
出身地 アメリカ合衆国 ネブラスカ州スコッツブラフ
死没 (2023-07-26) 2023年7月26日(77歳没)[1]
ジャンルカントリーロック
職業シンガーソングライター
担当楽器
ベース
ギター
ギタロン
活動期間1968年 -
レーベルアサイラム
エピック
Rev-Ola
共同作業者ポコ
イーグルス
公式サイト ⇒randymeisneronline.com
著名使用楽器

リッケンバッカー・4001フェンダー・プレシジョンベースフェンダー・ジャズベースen:Hagstrom

ランディ・ハーマン・マイズナー(Randy Herman Meisner、1946年3月8日 - 2023年7月26日[1])は、 アメリカ合衆国ネブラスカ州スコッツブラフ出身のの音楽家作曲家ベーシストポコイーグルスの創設メンバーとして著名[1][2]。リズム感に優れベーシストとしての評価が高い。ボーカルとしては、音域が非常に広く高音を得意としている。
キャリア

ドイツ系移民(祖父母の世代に移住)の小作農民の息子として生まれる[3][4]。父方にバイオリン教師がおり、また本人の母も歌、音楽を愛する人物であった。同世代の多くのロックミュージシャン同様、10歳の時に、エド・サリヴァン・ショーに出演したエルヴィス・プレスリーを観て衝撃を受け、ギターを手にする[5]。熱心な練習によりその技能が向上する中、一人の教師にベースギターを勧められ、ベース演奏と出会う。高校をドロップアウトし、音楽で生計を立てることを決心[5]1961年にザ・ダイナミックスのメンバーとして初めて人前で演奏する。コンサート、ダンスパーティーなどのライブ演奏を通じネブラスカを始めコロラド、テキサスなど近隣の州においてダイナミクス(後にドライビング・ダイナミクス)は著名なバンドとなり、シングル・レコードを残す。17歳の時に結婚した妻と子供を養うため、1965年にザ・ソウル・サバイバーズ(のちにザ・プアー)に加入し、家族を残してカリフォルニアに移住する[6][7]。しかし成功からは程遠く、バンドは演奏の合間に新聞の販売や果てはマリファナ売買にまで手を出して糊口をしのぐ有様だった[5]

1968年バッファロー・スプリングフィールドを解散したリッチー・フューレイジム・メッシーナのオーディションを受け、彼らとともに新バンド、ポコを結成する[8]。しかしファーストアルバム "Pickin' Up the Pieces" のプロデュースを巡ってフューレイ、メッシーナと対立し、バック・ミュージシャン的な扱いにも耐えかねたマイズナーは同作のリリースを待たずに脱退[9]。ベースとバッキングボーカルはそのまま収録されたが、マイズナーがリードボーカルを取った曲は、ジョージ・グランサムのリードに差し替えられた。

ポコを離脱後、双子を出産した妻を気遣って一時は故郷ネブラスカの家族の元に戻り、ジョン・ディアの販売代理店で働いたりしたが[5]1969年リッキー・ネルソンのマネージャー、ジョン・ボイランの誘いでネルソンのバック・バンド、ストーン・キャニオン・バンドに加入[10]。"In Concert at the Troubadour, 1969" (1970)、"Rudy the Fifth" (1971) の2枚のアルバムに参加する。また、ジェームス・テイラーの『スウィート・ベイビー・ジェームス』などにもセッション・メンバーとして参加した。この間、クラブTroubadour におけるランディ・マイズナーの演奏を後にバンド仲間となるドン・ヘンリーとグレン・フライは聞き知っており、その腕前を認めていた。

1971年夏、再びボイランの誘いでリンダ・ロンシュタットのバック・バンドのメンバーとして採用され、そこでドン・ヘンリーグレン・フライと出会う。後にバーニー・レドンも加わり、同年9月、ヘンリー、フライ、レドンとともにイーグルスを結成、デヴィッド・ゲフィンアサイラム・レコードと契約し[7]1972年にアルバム『イーグルス・ファースト』をリリース。アルバム中 自らがリードボーカルをとった"Tryin'"や"Take the Devil"の他、"Earlybird""Most of us are sad"などをバンドメンバーと共作。二作目の「デスペラード」では"Certain Kind of Fool"、"Saturday Night"作曲にかかわりこれを歌っている。 イーグルス三作目のアルバム「オン・ザ・ボーダー」には "Is it true?" を書いて"Midnight Flyer" 同様リードボーカルをとる。また、イーグルスの人気と知名度を桁違いのものにしたという4作目の「呪われた夜」では自身が主に作曲し歌った "Take it to the limit"がイーグルス初のミリオンセラー・シングルとなる。イーグルスのギタリストであるドン・フェルダーとの共作 "Too Many Hands" もこのアルバムに収められている。

イーグルスには1976年の『ホテル・カリフォルニア』の制作と77年のツアーまでメンバーとして参加[1]、自身の手による "Try and Love Again"を歌う。しかし、この曲がイーグルスとして公に演奏されることはなかった。結成当初は民主的だったバンド内で、ヘンリー、フライが徐々に専制的な態度を見せるようになったこと[5]ジョー・ウォルシュが加入し、バンドのサウンドがよりロック寄りになったこと[5]、ビッグ・グループの一員としての多忙な生活に疲れたことなどが重なり、1977年9月にイーグルスを脱退する。後任には、ポコでもマイズナーの後任を務めたティモシー・B・シュミットが加入。私生活でもイーグルス脱退以前からライブツアーによる不在などにより結婚生活は破たんへ向かい、1980年に正式に離婚する[5]

その後はソロ・アーティストとして "Randy Meisner" (1978)、"One More Song" (1980)、"Randy Meisner" (1982) をリリース。2作目のアルバムタイトル曲 "One More Song" にはイーグルスのメンバー、グレン・フライとドン・ヘンリーがバックコーラスで参加している。またセッション・プレイヤーとしてジェームス・テイラージョー・ウォルシュダン・フォーゲルバーグボブ・ウェルチリッチー・フューレイリチャード・マークスらのレコーディング、ライブに参加したほか、元ファイアフォールのリック・ロバーツとともにロバーツ-マイズナー・バンドでも活動。


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