ランディ・バース
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ランディ・バース
Randy Bass
阪神タイガース時代
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地オクラホマ州ロートン
生年月日 (1954-03-13) 1954年3月13日(70歳)
身長
体重184 cm
95 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション一塁手 右翼手
プロ入り1972年 MLBドラフト7巡目
初出場MLB / 1977年9月3日
NPB / 1983年4月16日
最終出場MLB / 1982年6月7日
NPB / 1988年5月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ロートン高等学校

ミネソタ・ツインズ (1977)

カンザスシティ・ロイヤルズ (1978)

モントリオール・エクスポズ (1979)

サンディエゴ・パドレス (1980 - 1982)

テキサス・レンジャーズ (1982)

阪神タイガース (1983 - 1988)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2023年
得票率78.6%(154票中121票)
選出方法競技者表彰(エキスパート部門)
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ランディ・バース(英語: Randy Bass、本名:ランディ・ウィリアム・バス(英語:Randy William Bass)、1954年3月13日[1] - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン出身の元プロ野球選手内野手)、政治家

メジャーリーグベースボール(MLB)でプレー後、1983年から1988年まで日本プロ野球機構(NPB)の阪神タイガースでプレー。登録名は「バース」。背番号は44番。6シーズンに渡る在籍は、ウィリー・カークランドマット・マートンと並び球団の歴代外国人野手としての史上最長記録である[注 1]

NPBにおけるシーズン打率のNPB記録保持者(.389)であり[2]、史上6人目の三冠王達成者。外国人選手ではNPB史上最多となる2度の三冠王に輝いている。

現役引退後は2004年から2019年までオクラホマ州議会上院議員(民主党所属)を務めた。
経歴
MLB時代

MLB時代はミネソタ・ツインズカンザスシティ・ロイヤルズモントリオール・エクスポズサンディエゴ・パドレステキサス・レンジャーズを転々としていた。

MLB時代はその長打力から「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」と言われたこともあったが、実際の評価は「ウォーニングトラック・フライボールヒッター[注 2]」というものであり、加えて速球に弱いという弱点が重なりMLB通算本塁打は9本に終わっている[3]。また、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラー獲得には至らなかった。エクスポズ時代のチームメイトには、後に読売ジャイアンツで活躍するウォーレン・クロマティがいた。

1982年のオフ、ハワイで開催されたウインターミーティングでは、阪神のほか阪急ブレーブスヤクルトスワローズなどNPBの複数の球団がバースに関心を寄せていた。当時ツインズのGMだったジャック・マキーオンがバースの代理人であったアラン・ミヤサンドに「ヤクルトを優先してほしい」と声を掛けてくれていた[注 3]こともあり、ヤクルトとしては改めてビデオを確認したうえで「日本では活躍できる」と確信し、契約寸前にまで至った。だが、守備難がネックで一塁しか守れなかったこと、当時のヤクルトの一塁には大杉勝男杉浦享という強打者が二人おり被ってしまうため、当時の監督の武上四郎が急に難色を示しだし、結果的に大杉、杉浦を優先したことから合意には至らなかった[3]。ヤクルトが撤退し、最後は阪神と阪急との間で獲得競争となり、阪神の藤江清志編成部長と阪急の矢形勝洋営業部長が契約金額を競り合ったが、ブーマー・ウェルズに着目した阪急は乗り換えて手を引いた[注 4]
阪神タイガース時代

1982年12月に阪神への入団が正式に決まった[4]

1983年の阪神入団当初は藤田平が一塁手として多用されていたこともあり、右翼手として守備に就いていたが、上記の通り全力疾走できないことと、藤田の年齢による衰えから、後に一塁手に固定される。オープン戦でいきなり死球を受け骨折した影響で、公式初出場は開幕5試合目となり来日初打席を代打で迎えるも三振に終わり、その後も安打は出ず開幕から15打席無安打という当時の球団助っ人最低記録を更新する出足となる[5]。序盤は打撃に苦しんだものの、5月4日の対読売ジャイアンツ戦(後楽園)で来日初安打を放つと、5月7日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)では来日初本塁打を記録し、最終的にこの年の打撃成績は打率.288、35本塁打、83打点の好成績を記録する[5]。また、同年のシーズン終盤には25試合連続安打も記録しており、これは2001年に桧山進次郎が28試合で更新するまで球団記録であった。

この1983年に、バースはシーズン途中で解雇されていた可能性があった。前年後半にチームが大躍進したこともあり阪神ファンは優勝への期待を募らせていたが、4月を2位で終了したものの5月途中には3勝10敗と大きく負け越してしまう。調子の上がらないバースが不調の原因との批判も多く、同期入団でミートの上手いスティーブ・ストローターの方がNPBの野球に適合しているとの評価が高かった[注 5]。そんな中、先発投手陣が手薄な球団は投手のリチャード・オルセンの獲得に動く。当時の規定では外国人選手は1チーム3名(一軍同時登録・出場は2名)までしか契約できなかったこともあり、既にキム・アレン、ストローター、バースの3人の野手と契約していた球団は、このうち誰か1人を解雇する必要に迫られた。アレンは残留となったが、あとはミートは上手いが怪我が重症であった[6]ストローターか、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなど調子の上がらなかったバースかの選択となったが、球団はパワーの他に態度・努力・人格を評価し、バースを残留させた。その期待通りバースは後半戦から一気に調子を上げた。

1984年は打率.326としたものの、27本塁打と前年から本塁打数が減少したことにより、再度の解雇危機に陥るも、この年のオフに監督に就任した吉田義男はバースの長打力を評価していたことから球団に残留させるように求めたことにより、解雇を免れる[4][注 6]

1985年には元大洋ホエールズの長崎啓二を手本としたミートバッティングを独力で会得。掛布雅之岡田彰布と強力なクリーンナップを形成。同年4月17日の対巨人戦、槙原寛己からのバックスクリーン3連発での1本がバースのこの年の第1号本塁打である[8]。これ以降バースは破竹の勢いで打ちまくり[9]、最終的に打率.350、54本塁打、134打点で三冠王シーズンMVPを獲得し[10][注 7]、チームのリーグ優勝に大きく貢献した[5]。特にシーズンを通して3番がバース、掛布が4番という打順が多く、バースを敬遠したところで結局は4番の掛布と戦わないといけないことから、勝負せざるを得ず、バースが勝負できたことが三冠王を獲得できる成績につながったともいわれている[11]

西武ライオンズとの日本シリーズでは第1戦と第2戦でいずれも決勝本塁打を放つ活躍を見せ、日本シリーズでもシリーズMVPを獲得するなど、タイガースの2リーグ制後初となる日本一へと導いた[12]

この年は王貞治1964年に記録したシーズン55本塁打の更新が注目されたが、54本目を打った段階で残り試合数が2試合になった。いずれも巨人戦で、その監督は王貞治。最初の試合(10月22日、甲子園)で先発した江川卓は3打席ストライクで勝負し1安打に抑えるも、他の投手は事実上の敬遠攻めであった。最終戦(24日、後楽園)の第1、2、4、5打席はストレートの四球、第3打席は先発の斎藤雅樹がバットが届くところに投じた初球の外角高めの球に飛びつくようにセンター前に単打して、結局1打数1安打4四球で記録は達成できず、翌日の報知新聞には「バース記録達成失敗」という見出しと「自分はバースに敬遠を指示しなかった」という王のコメントが掲載された。当時巨人に在籍した外国人投手のキース・カムストックは、後に自らの著書でこのことを振り返り、「バースにストライクを投げると、1球につき罰金1000ドルが課せられていた」と記している。また当時バースは、最終戦を前に「記録達成は無理だろう、私はガイジン(外人)だから」とも語っていた。一方、この敬遠攻めの影響でバースの出塁率が上昇し、前日まで9厘差でトップだった吉村禎章(当日4打席で出塁0)を最終打席で.0005差で抜いたことで、バースは最高出塁率のタイトルも獲得した[注 8]。結果的にバースは当時表彰タイトルだった最多勝利打点と併せ、打撃部門5冠に輝いた。ちなみにバースは、翌年の7試合連続本塁打記録を賭けた対戦(後述)と合わせ、記録を恐れず真っ向勝負してきた江川を高く評価し、「本当にファンタスティックだった」「江川は素晴らしいピッチャーだったし、いつも勝負してきた。敬意を表するし、尊敬もしている」とコメントしている[7]

西武ライオンズとの日本シリーズはセ・リーグの名遊撃手であった吉田義男広岡達朗が監督として戦う因縁の対決であった。バースは第1戦から第3戦で3試合連続本塁打(第1戦は工藤公康の外角カーブを左翼へ決勝3ラン、第2戦は高橋直樹の110 km/hの外角カーブを左翼へ決勝2ラン、第3戦は工藤公康から右翼へ3ラン)を放ち、第2戦には守備でも歴史的ファインプレーを見せる(後述)など攻守にわたる大活躍でチームを牽引。阪神を1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってからは初の日本シリーズ優勝に導き、バースはシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得する快挙を達成した。なお阪神が次に日本シリーズ優勝したのは2023年であることから、バースは38年もの間阪神唯一の日本シリーズMVP獲得者だった。

新ストライクゾーンが導入された1986年4月、開幕試合の大洋戦は5打数無安打としたものの、8試合目に3割台とし、5月は6試合連続マルチ安打を記録、5月下旬から6月にかけて16打数12安打で打率.369に上げ、5月31日にはこの年初めて首位打者に立ち、以降譲ることなく打率をさらに上げて、7月2日の大洋戦で5打数4安打として打率を.402と4割に乗せる。7月8日に.407としたのをピークに中日の小松辰雄に4打数無安打で抑えられ、打率4割を切り、その後25打数無安打とスランプに入り.376まで落とすが、8月に入り12日に.399まで戻す。8月以降は各試合終了時点で打率4割を越えることはなかったが、8月は.390を割ることはなかった。9月は3日と19日に.389としたものの、9月終了時点で.394とした。10月、打率4割の可能性はまだ残っていたものの、7日の大洋戦と続く広島戦で無安打で.388に落とし、14日の最終戦の大洋戦で2打数2安打で.389、打率のNPB記録を更新し[13]、他にも47本塁打、109打点の成績を挙げ、ロッテオリオンズ落合博満と共に、2年連続三冠王となった[14]。バースは規定打席到達後、それまで張本勲が持っていたシーズン打率.383のNPB記録を下回ってしまうと日本の投手がそれ以上勝負してくれないのではないかと考え、監督に直訴してそれ以降の試合を欠場させてもらうつもりでいたが、結局一度も下回ることはなく、最後まで打席に立ち続けた。

また、32歳のバースは日本の球場なら左方向に打っても本塁打になることを悟り、左翼への本塁打を量産し、この年の6月26日には王貞治と並ぶ7試合連続本塁打のNPBタイ記録を達成。6月18日高野光から左翼へ16号ソロ(甲子園球場)、19日荒木大輔から右翼へ17号2ラン(甲子園)、20日郭源治から左翼ポールへ18号2ラン(甲子園)、21日鈴木孝政から左翼へ19号ソロ(甲子園)、22日平沼定晴の内角フォークを左翼へ20号2ラン(甲子園)、24日はルーキー桑田真澄が投じた114 km/hのド真ん中のカーブをバックスクリーン右へ21号2ラン(後楽園球場)、タイ記録達成の26日は5対5で迎えた8回表に球数120超の江川卓が投じたこの打席2球目136 km/hの真ん中の高さの内角直球を後楽園球場の右翼場外の釣具店の屋根まで運んだ飛距離約150mの決勝22号ソロ(通算138号)だった。


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