ランディ・シュガート
生誕 (1958-08-13) 1958年8月13日
リンカーン(アメリカ合衆国ネブラスカ州)
死没1993年10月3日(1993-10-03)(35歳)
モガディシュ(ソマリア)
埋葬地ウェストミンスター墓地(ペンシルベニア州カーライル)
所属組織アメリカ合衆国
部門アメリカ陸軍
軍歴1976年?1993年
最終階級一等軍曹
部隊第75レンジャー連隊第2大隊
デルタフォース
戦闘ジャストコーズ作戦
ゴシック・サーペント作戦
ランディ・シュガート(英:Randall David Shughart、1958年8月13日 - 1993年10月3日)は、アメリカ陸軍の軍人。1993年10月のゴシック・サーペント作戦におけるモガディシュの戦闘での功績により名誉勲章を死後追贈されたアメリカ陸軍第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊の兵士である。 シュガートは、1958年8月13日にネブラスカ州リンカーンで、ドイツ系アメリカ人に家に生まれた。父親のハーバート・シュガートがアメリカ空軍を除隊した後は、一家でペンシルバニア州ニューヴィル シュガートは、ニューヴィルのビッグスプリング高校
生い立ち
軍歴
シュガートは1993年にレンジャー任務部隊の一員としてソマリアのモガディシュに配属された。1993年10月3日、ゴシック・サーペント作戦の一環として、アイディード派の外務大臣オマール・サラッドと最高政治顧問モハメッド・ハッサン・エワレを捕らえる事を目的とした攻撃作戦「アイリーン」に参加した。作戦中にUH-60 ブラックホークヘリコプター「スーパー・シックス・ワン」が市内で撃墜され、戦闘捜索救難(CSAR)部隊が、確保するために派遣された。その後の2機目のブラックホークヘリコプター「スーパーシックス・フォー」が撃墜された[4]。
シュガート、ゲイリー・ゴードン、ブラッド・ハリング一等軍曹は、ブラックホークヘリコプター「スーパー・シックス・ツー」から上空狙撃支援を行っていた。ゴードンはソマリアの敵対勢力が墜落現場に集結しているのを確認し、墜落現場を確保するために地上に降下することを要請した[4]。
作戦指揮官は、狙撃兵が乗組員を地上から援護するには状況が危険すぎるとし、ゴードンの要請を2回にわたり拒否した[1]。司令部の立場としては、狙撃兵が上空から援護することにより、より効果的な支援ができるというものだった[5] 。しかし、ゴードンは、許可が出るまで要請を繰り返した。ハリングは、「スーパー・シックス・ツー」の射手が負傷したため、この任務を引き継ぎ、機上に留まることになった[5]。
シュガートとゴードンは、墜落現場から約100メートル (330 ft)離れたところに狙撃銃とサイドアーム(補助)で武装、降下し撃墜されたブラックホークに向かった。既にパイロットのマイケル・デュラント上級准尉が、H&K MP5でヘリコプターを守っていたが、背中の椎骨が砕け、左の大腿骨を骨折していたため、操縦席から動くことができなかった。「スーパーシックス・フォー」に到着すると、デュラントと他の乗組員の遺体を墜落現場から引き離し、ヘリコプターを防御した[4]。その後、ゴードンが、最初に墜落現場を包囲していた敵対勢力に射殺されたと考えられている。シュガートは、ゴードンのCAR-15ライフルを回収し、デュラントに渡し、これを使用させた[1]。その直後、シュガートも戦死し、現場は敵対勢力に蹂躙され、デュラントも捕虜になった。デュラントの著書『英雄たちの中隊』によると、ソマリア人の敵対勢力は、銃撃戦の末に25人が死亡した[6]。
この行動の余波として、シュガートとゴードンのどちらが最初に戦死したのか、若干の論争があった。公式記録では、シュガートとなっているが、マーク・ボウデンは、モガディシュの戦闘について記した著書『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』の中で、戦闘に参加した別のデルタフォース隊員であるポール・ハウ三等軍曹の証言を引用している。ハウ軍曹によると、シュガートが無線で救助を要請しているのを聞き、またデュラントに手渡されたのはシュガートが愛用していた特徴のあるスプリングフィールドM14ではなかったと証言した。更には、ゴードンの人間性について、まだ戦える間、自らの武器を他の兵士に渡すようなことはないだろうと述べている[5]。デュラントも、後に最初に戦死した人物を誤って認識していたことを認めたが、公式記録を変更することまでは望まなかった。
シュガートの遺体は、最終的に回収され、ペンシルベニア州カーライルのウェストミンスター墓地に埋葬された[7]。 モガディシュの戦闘は2001年に「ブラックホーク・ダウン」という映画になり、シュガート役は俳優のジョニー・ストロング シュガート一等軍曹の略綬等は、以下の通りである。
大衆文化
勲章等
略綬等