ランズダウン侯爵
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ランズダウン侯爵

紋章記述 Arms: 1st and 4th, Ermine, on a Bend Azure, a Magnetic Needle, pointing to the Polar Star Or (Petty); 2nd and 3rd, Argent, a Saltire Gules, and a Chief, Ermine (FitzMaurice). Crests: 1st, A Beehive beset with Bees volant proper (Petty). 2nd, A Centaur drawing a Bow and Arrow proper, the part below the waist Argent (FitzMaurice). Supporters: On either side a Pegasus Ermine, bridled crined winged and unguled Or, each charged on the shoulder with a Fleur-de-lis Azure.[1]
創設時期1784年12月6日
創設者ジョージ3世
貴族グレートブリテン貴族
初代初代侯ウィリアム・ペティ
現所有者9代侯チャールズ・モーリス・ペティ=フィッツモーリス(英語版)
推定相続人ケリー伯サイモン・ペティ=フィッツモーリス
相続資格初代侯の嫡出直系男子
付随称号下記参照
現況存続
邸宅バウッドハウス(英語版)
旧邸宅ランズダウンハウス(英語版)
モットーVIRTUTE NON VERBIS
(By courage, not words)

ランズダウン侯爵(: Marquess of Lansdowne)は、イギリス侯爵位。グレートブリテン貴族

13世紀以来の長い歴史を持つアイルランド貴族ケリー伯爵(ケリー=リックナウ男爵)フィッツモーリス家(英語版)の分流で首相を務めた第2代シェルバーン伯ウィリアム・ペティ1784年に叙されたのに始まる。3代侯の代の1818年からはフィッツモーリス家の本家となり、ペティ=フィッツモーリスと改姓してケリー伯爵位とケリー=リックナウ男爵位も併せて継承している。
歴史首相を務めた初代ランズダウン侯爵・第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティランズダウン侯爵家本邸バウッド・ハウス(英語版)

13世紀以来ケリー=リックナウ男爵位を継承し続けてきたアイルランド貴族フィッツモーリス家の当主初代ケリー伯爵(第21代ケリー=リックナウ男爵)トマス・フィッツモーリス(1668?1741)とその妻アン・ペティ(経済学者ウィリアム・ペティの娘)の次男ジョン・フィッツモーリス(1706-1761)は、ホイッグ党庶民院議員を務めた後、1751年に母方の姓ペティに改姓するとともにペティ家に由来する爵位を与えられた。1751年10月7日にはアイルランド貴族フィッツモーリス子爵(Viscount FitzMaurice)とダンケロン男爵(Baron Dunkerron)、1753年6月6日にはアイルランド貴族シェルバーン伯爵(Earl of Shelburne)、1760年5月20日グレートブリテン貴族バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム男爵(Baron Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)に叙せられた[2][3]

その長男で1761年に第2代シェルバーン伯爵を襲爵したウィリアム (1737-1805)は、ホイッグ党の有力政治家となり、1782年から1783年にかけてイギリスの首相を務めている。彼の在任中にアメリカ独立戦争の講和条約パリ条約の締結が行われた[4]。首相退任後の1784年12月6日にはランズダウン侯爵(Marquess of Lansdowne)、バッキンガム州におけるチッピング・ウィコムのウィコム伯爵(Earl Wycombe, of Chipping Wycombe in the County of Buckingham)、キャルネ=キャルストン子爵(Viscount Calne and Calston)に叙せられた(すべてグレートブリテン貴族)[3][5]。これがランズダウン侯爵家の創始となる。

初代侯の死後、その長男であるジョン(1765-1809)が2代侯となった。彼は襲爵前の1786年から1802年にかけてホイッグ党の庶民院議員を務めたが、襲爵から4年後の1809年に死去した[5][6]

2代侯には子供がなかったので、その弟(初代侯の次男)であるヘンリー (1780-1863)が3代侯を継承した。彼はホイッグ党の穏健派閥の幹部としてホイッグ党、あるいはトーリー党自由主義派の内閣で財務大臣内務大臣枢密院議長貴族院院内総務などの閣僚職を歴任した[7]。また1818年には本家筋にあたる第3代ケリー伯フランシス・トーマス=フィッツモーリス(英語版)が男子なく死去したため、第4代ケリー伯爵(Earl of Kerry)と第4代クランモーリス子爵(Viscount Clanmaurice)、第24代ケリー=リックナウ男爵(Baron of Kerry and Lixnaw)も継承することになった。この際に「ペティ=フィッツモーリス」に改姓した[5][8]

3代侯の死後、その次男(長男は死去)であるヘンリー(1816-1866)が4代侯となった。彼は襲爵前の1837年から庶民院議員を務め、1856年にはいまだ父が存命ながら繰上貴族院召集令状により父の爵位ウィコム男爵位を継承して貴族院議員となった。ホイッグ党(自由党)に所属し、1856年から1858年にかけてホイッグ党政権第一次パーマストン子爵内閣で外務政務次官(英語版)を務めた。しかし襲爵から3年後の1866年に死去している[5][9]

その長男である5代侯ヘンリー (1845-1927)もはじめ自由党の政治家だったが、自由統一党を経て保守党(統一党)へ移籍し、20世紀初頭の保守党政権第3次ソールズベリー侯爵内閣とバルフォア内閣で外務大臣(在職1900-1905)を務め、日英同盟英仏協商の締結に尽力した[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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