ランス・アームストロング
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ランス・アームストロング
Lance Armstrong


個人情報
本名ランス・エドワード・アームストロング
Lance Edward Armstrong
愛称The Boss
生年月日 (1971-09-18) 1971年9月18日(52歳)
国籍 アメリカ合衆国
身長177cm
体重71kg
チーム情報
分野ロードレース
役割選手
特徴オールラウンダー
プロ所属チーム
1992-1996
1997
1998-2004
2005
2009
2010モトローラ
コフィデス
USポスタル
ディスカバリーチャンネル
アスタナ
レディオシャック
グランツール最高成績
主要レース勝利
世界選手権・ロードレース (1993)
アメリカ合衆国選手権・ロードレース(1993)
クラシカ・サンセバスティアン (1995)
フレッシュ・ワロンヌ (1996)

獲得メダル

世界選手権自転車競技大会
1993 オスロ個人ロードレース


最終更新日
2012年10月22日

ランス・エドワード・アームストロング(Lance Edward Armstrong、1971年9月18日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州プレイノ出身の自転車ロードレース選手。

癌を克服してツール・ド・フランスを7連覇したが、ドーピングの発覚によって7連覇はすべて取り消され、さらに自転車競技からの永久追放処分を受け、獲得タイトルの大半を剥奪された。
概略

アマチュア全米チャンピオンやオリンピック代表を経てプロ選手となった。世界選手権ロードレース部門1993年に優勝するなどの実績を残したが、精巣がんに罹患し、治療のためキャリアを中断することとなる。その後復帰し、1999年から2005年まで7年連続でツール・ド・フランスの総合優勝を達成した。

2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン (Sportsman of the Year) に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞しているがこれもドーピングで獲得したタイトル(4回のツールドフランスの優勝を評価されたこと)による結果の受賞である[1]

2005年のツール・ド・フランス終了後に一度競技活動を引退し、LIVESTRONG財団の財団長としてガン撲滅研究を進める一方、TREKの株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから現役に復帰。また、U-23の若手育成を目的としたチーム「TREK-Livestrong U-23」を創設、自らオーナーを務めた。

2011年2月16日、2度目の現役引退表明が彼自身により発表された。しかしながら、これはロードレースへの参加を控えるという趣旨であり、後述するように、その後はトライアスロンマウンテンバイクを利用したレースに活動の場を移した。

ドーピングを行っているのではないかという疑惑を現役時代から持たれていたが、引退後の2012年6月12日、全米反ドーピング機関 (USADA)(英語版)からドーピング容疑で告発された[2]。詳細は「ランス・アームストロングのドーピング問題」を参照

2012年8月24日、USADAにより、ツール・ド・フランスの7連覇を含む1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪とトライアスロンをも含む自転車競技からの永久追放の処分を科された。10月10日にはUSADAがドーピングの調査報告書を公表した。これを受け、国際自転車競技連合 (UCI) は10月22日、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表[3]ツール・ド・フランスでの7年連続総合優勝(1999年から2005年)を含む1998年8月1日以降の全てのタイトルの剥奪が確定した。2013年1月14日、テレビ番組の収録において自らドーピングを認めた[4][5]
経歴
生い立ち、プロデビューまで

ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。

その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987 - 88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989 - 90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。

この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックロードレースでも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。
競技生活前半

これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。

1993年、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。

そして、同年オスロで行われた世界選手権自転車競技大会のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥラインオラフ・ルードヴィッヒヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳[6] で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となるヤン・ウルリッヒである。

1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、ツール・ド・フランスへ出場。途中チームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。

そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ?ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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