ランスロット・ブラウン
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Lancelot "Capability" Brown
ランスロット・ブラウン
(ナサニエル・ダンス=ホーランド画、ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵)c. 1773
生誕Lancelot Brown
Kirkharle, Northumberland, England
洗礼30 August 1716
死没1783年2月6日(1783-02-06)(67?68歳)
London, England
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Gardener

Landscape architect

配偶者Bridget Wayet (m. 1744⁠–⁠1783)
子供7


William Brown

Ursula Hall

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ランスロット・ブラウン (1715年から16年の生まれ [洗礼は1716年8月30日] - 1783年2月6日 ) [1]ケイパビリティ・ブラウンというニックネームでより一般的に知られる、イギリスランドスケープ・アーキテクト風景式庭園の設計者。

「イギリス18世紀の芸術家のうち、正当な評価が最も遅れた人物」および「イギリス随一の庭師」として記憶され、170以上の庭園を設計。その多くはいまだ現存。ブラウンに『ケイパビリティ』というニックネームが付けられたのは、ブラウンは造園を依頼した地主たちに、彼らの所有地は「もっと素晴らしい庭園になる将来性(ケイパビリティ)がある」と言うのが口癖だったためである。 [2] 世界遺産にもなっているブレナム宮殿を始め、チャッツワース・ハウスハイクレア・カースルウォリック城などを設計し、イギリスの庭園史に残る造園家である。

彼の影響力は非常に大きかったので、彼に先立ってチャールズ・ブリッジマンウィリアム・ケントによってなされたイギリス式庭園への貢献がしばしば見落とされている。ケントの理解者ホレス・ウォルポールさえ、ケントの後継者が「非常に有能な造園家」であることを認めている。 [3]
人物
幼少期とストウ

ブラウンは1716年、スコットランドとの境界に近いイングランド北東部のノーサンバランド、カークハールで土地管理人と女中の間の5人目の子供として生まれ、16歳までカンボの学校で教育を受けた。父ウィリアム・ブラウンはサー・ウィリアム・ロレインの土地管理人であり、母アーシュラ(旧姓ホール[4] )はカークハール・ホールに勤務していた。長兄ジョンは不動産鑑定士となり、後にウィリアム卿の娘と結婚。兄ジョージは石工建築家になった。ランスロットは学業を終えたあと、サー・ウィリアム・ロレインの屋敷であるカークハール・ホールの厨房用菜園で庭師の見習いとして23歳まで働いた。1739年に彼は南へと向かい、リンカンシャーの港町ボストンに滞在した。[5] そこからさらに内陸部へと足を向け、オックスフォードシャーのキディントン・ホールに人口湖を新設するという初のランドスケープの仕事を手に入れる。彼はサー・リチャード・グレンヴィルの屋敷であるバッキンガムシャーのウットン・アンダーウッド・ハウスに引っ越した。 [6] バッキンガムシャーのストウ庭園

1741年 [7]バッキンガムシャーのストウ庭園 (Stowe Landscape Gardens)でブラウンは次席の庭師として領主コバム卿の園芸スタッフに加わり [1]、イギリスの新様式である風景式庭園を創始した造園家ウィリアム・ケントから様々な植物の知識や建築技術、土木工事といった大掛かりな技術までを学び、生来の才能に磨きをかけていく。

1742年26歳の時に彼は25ポンド(2019年の貨幣価値で3900ポンドに相当)年俸で正式に庭師頭に任命され、西ボイコットパビリオンで暮らす。ブラウンはストウで1742年から1750年まで庭師頭を務めた。ストウでは「ギリシャの谷」を作ったが、これは名前と裏腹に、地形と森林を抽象的に構成したものである。コバム卿は、自分の貴族仲間からフリーランスの仕事を受けることをブラウンに許し、おかげでブラウンは風景庭園の造園家として知られるようになった。イギリスの新しい様式である風景庭園の設計の担い手と見られたブラウンは、大地主たちの間で引く手あまたの存在となった。ブラウンの名が知られるようになっていた1751年に、ホレス・ウォルポールウォリック城でのブラウンの仕事について、いささか軽んじるような筆致でこう記している。

「城はきわめて魅力的です。眺望は言葉に表せないくらい満足できました。敷地の端では、エイヴォン川が滝になって流れ下るようになっています。巧みな設計はブラウンなる者の手によるものですが、その下敷きになったのはケントおよびサウスコート氏が提供したいくつかのアイディアです」

この時期から約十年はブラウンの黄金期ともいうべき時期で、彼は前述のブレナム宮殿チャッツワース・ハウス、ペットワース・ハウス (Petworth House) などに代表される名庭園を次々と作り出していく。

1760年代には、彼は1件の仕事につき平均500ポンド(2019年の貨幣価値で68,800ポンド)、年収で6,000ポンド(2019年の貨幣価値で826,000ポンド)を稼ぎ出すようになっていた。乗馬の達人であったブラウンは、地所全体を見て大まかなプランを立てるのに1時間程度しか必要とせず、仕事が早かった。1764年、ブラウンはハンプトン・コート宮殿でジョン・グリーニングの後任として国王ジョージ3世の主任庭師に任命され、ウィルダネス・ハウスに暮らした。 [6] 1767年に彼はノーサンプトン伯爵からハンティンドンシャーのフェンスタントンで自分のための不動産を購入、1770年にケンブリッジシャーとハンティンドンシャーの名誉長官に任命されたが、実務のほとんどは息子のランスが遂行した。 [8]
風景式庭園

ブラウンはイギリスで最高級のカントリーハウスや邸宅を囲む170を超える庭園を担当していたと推定されている。彼の作品は現存するものだけでもベルボア城 、Croome裁判所(庁舎の設計も担当、ブレナム宮殿ウォリック城 、ヘアウッドハウス、アプルダークームハウス、ミルトン修道院(と、近くのミルトンアバス村)、キューガーデン、その他の多くの場所を手掛けている。 [9] バドミントンハウス :19世紀に全盛期を迎えたブラウン様式の風景庭園

なめらかにうねりながら邸の正面に達する草地、樹木の集中した植え込み、並木、単立する木の散在、小川を目に見えないように堰き止めることによって形成された蛇行する湖などは、イギリスの風景庭園における「特別な庭を造らない」新しいスタイルであり、これらの風景式庭園はそれ以前の幾何学式庭園の残滓をほぼ一掃した。 バークシャー州サンドルフォードのブラウンの池。 1781年からモンタギュー夫人の代理人としてサンドルフォードにいたブラウンが改造した、旧修道院の魚の池のひとつ

彼の設計する風景は当時のファッションの最前線にあった。それらは、先人たちの設計した庭園――1710年代から詩人のアレキサンダー・ポープらによって批判されるようになっていたイギリスの有名なフォーマル・ガーデン――とは根本的に異なっている。1719年から、ウィリアム・ケントがそれらをより自然な構成の庭園に作り替え始めていたが、この新様式はブラウンの風景庭園で洗練の極みに達したのである。

ブラウンのパトロンたちは、ブラウンが設計した理想的な風景を自分たちが賛美・蒐集しているイタリアの風景画になぞらえた。その嚆矢となったのはストウヘッドの風景庭園についてのケネス・ウッドブリッジの評だが、実はこの庭園はブラウンが関わっていない「ブラウン流」のものであり、ブラウン自身は取り入れたことがない周遊式の散歩道が設けられている。 ブレナム宮殿 ブラウンは、 Vanbrughが手がけたGrand Bridgeの下を流れる細い川をせき止め、橋の構造の半分を水に沈めて改善を図った
批判

ブラウンに最も批判的だったのは同時代の著述家ユーヴドール・プライスで 、彼はブラウンが好んで造作した樹木の集中的な植え込みを「同じ型でやたらに沢山作られたプディング」と呼んだ。 [10] ブラウン流に造作されたロングリートの庭園からキャリアを始めたが自身のデザインはフォーマルな構造を持っている20世紀の造園家ラッセル・ペイジも、ブラウンを「素晴らしいフォーマル・ガーデンを無残に破壊し、芝生・植え込み・不格好な池や湖を安易に組み合わせたものに変えてしまうよう金持ちの顧客にアドバイスした」と批判した。 [11] イギリスの詩人で風刺作家であるリチャード・オーウェン・ケンブリッジは、「改善される前の天国を見ることができるように」ブラウンより先に死にたいものだと言い放った。


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