ランゴバルド人
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ランゴバルド人(ランゴバルドじん、: Lombards, : Longobardi, : Langobarden, : Lombards, : Langobardi, ギリシア語ラテン翻字: Langobardoi)、またはランゴバルド族(ランゴバルドぞく)は、6世紀後半にイタリア半島の大部分を支配する王国(ランゴバルド王国)を築いたことで知られるゲルマン系部族である。日本語ではしばしば英語形に基づきロンバルドとも表記される。
名称

ランゴバルド人の伝説的な説話では、ランゴバルド人の旧名はウィンニーリー(Winnili)であり、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれた地でヴァンダル人と戦った際に、グウォーダン(Gw?dan[注釈 1]、オーディン)神からランゴバルド(Longibardi)の名を与えられたと伝えられる[2]

この伝説を伝えるのは、7世紀に記された『ランゴバルド族の起源(Origo gentis Langobardorum)』と、8世紀パウルス・ディアコヌスによって書かれた『ランゴバルドの歴史(英語版)』である。それによれば、ウィンニーリー族とヴァンダル族が戦った時、ヴァンダル族はグウォーダン神に勝利を祈願した。この時、グウォーダンは日の出時に最初に見かけた方に勝利を与えるとしたが、ウィンニーリー族の族長イボルとアギオの母ガンバラはグウォーダンの妻フレア(Frea、フリッグ)に近づき、戦勝の祈願をした。フレアはウィンニーリー族に、明朝はグウォーダンの館の東側に並び、その際女性は髪をバラバラにし、髭に見えるように顔の前にまとめておくようにと言った。朝になりグウォーダンが起きて東側の窓を見ると髭の長い人間たちがいた。「あの髭の長い者たち(ロンギバルビィ)は何者か」と言った。それはフレアに戦勝を祈願していたウィンニーリー族の女たちだった。この時フレアは、「あなたが名前を贈った者に勝利を与えるように。」と言った。こうしてグウォーダンはウィンニーリー族に勝利を与えなければならなくなった[3]。以後ウィンニーリー族は、「ランゴバルド族」と呼ばれるようになったと言う。

言語的にはランゴバルドとは「長い顎鬚(あごひげ)」を意味する(英語のlong beardに相当)ランゴバルド人の言葉に由来すると考えられ[4][5]、部族への帰属を示す象徴として男性が顎鬚を伸ばしていた事に因んでいる。ランゴバルド人がイタリア半島の住人と同化して姿を消した後も、イタリア北部を指す地名ロンバルディア(ランゴバルド人の土地)としてその名は残り、現在でも使用される。
歴史
最初期の歴史ランゴバルド人(族)の移動関連地図[注釈 2]

ランゴバルド人の原住地が、その古伝承通りスカンディナヴィア半島南部(Schonen スコネン[注釈 3])であることは今日ほぼ確定されている[7][5][注釈 4]。人口過剰、土地の不足のため、彼らの一部がイボル(Ybor)とアギオ(Agio)と言う首長に率いられて古郷を離れ、スコリンガ(Scoringa)と呼ばれる地に勢力を持っていたヴァンダル人と戦ってこれを打ち破った[7]。このスコリンガは、現在のオーデル川ヴィスワ川(ヴァイクセル川)の間の海岸地方であったと推定されている[2]。ヴァンダル人を撃破した後、前150年-前100年頃には、ランゴバルド人はマウリンガ(Mauringa)と呼ばれた地に居住していた。この地は現在のエルベ川左岸のリューネブルク地方とメクレンブルク地方に相当すると考えられる[2]。ランゴバルド人は現地人と戦闘を交えつつ混住するようになり、スエビ部族連合を構成する一部族となった[2]ローマ人の記録者はいずれもこの時期のランゴバルド人をスエビ人の一支族と見做している[2]。ランゴバルド人は前1世紀前半にスエビ人がウシペテース人(英語版)と戦ってライン川流域に進出した際には、恐らくその一部として加わっていたものと推定される[2]

その後のランゴバルド人の動向については、ローマ人による断片的な記録しかない。彼らは少数であったが、その武勇によって独立を維持した高貴な部族であるとタキトゥスは記録する[2]

「このセムノーネース[注釈 5]に反して、ランゴバルディーの高貴さを有名ならしめているのは、その少数さである。きわめて多数の、しかもきわめて強大な国々に囲まれながら、彼らは服属によらず、かえって戦争と冒険(戦争の危険を冒すこと)によって、おのれの安全を保っているのである。(タキトゥス[10])」

ランゴバルド人は西暦5年ティベリウス率いるローマ軍の攻撃を受けて一時的にエルベ川の右岸へ逃れた[2]。そして西暦9年トイトブルク森の戦いでローマ軍が敗退しその脅威が和らぐと、再びエルベ川左岸に帰還した[2]17年にはスエビ部族連合から離脱し、アルミニウス率いるケルスキー族(英語版)と結び、スエビ人を打ち破った[2]。更に47年にはケルスキー族の内紛に介入し、追放された王イタリクスをケルスキー族の王に復位させた[2]。その後、166年にオビイ族(英語版)と共に6,000人の兵力でパンノニアを攻撃したが、ローマ軍に敗れ故地に撤退したことが伝えられる[2]。この後、いわゆる民族移動時代である5世紀まで、ランゴバルド人の動向は全く記録に登場しない[2]
民族移動時代

5世紀末、ランゴバルド人はドナウ川の中流域に現れる。彼らがエルベ川流域から何時、どのような経路で、何のために移動したのか、確実に言えることは何もない[2]。ただしこの時移動したのはランゴバルド人の一部であり、エルベ川左岸地区にはかなりの人数が残留していたことが確認されている[2]。残留したランゴバルド人たちは、少なくても12世紀までバルディ族(Bardi)の名でしばしば記録に登場する[2][注釈 6]

移動したランゴバルド人たちは、アンタイブ(Anthaib)、バイナイブ(Bainaib)、ブルグンダイブ(Burgundaib)を次々と襲撃し、住民を支配下に置いたとされる[11]。この三つの地名はいずれも部族名から来ていると推定されるが、具体的にどこの土地を指すのかは判然としない[11]


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