A.ランゲ&ゾーネ(A. Lange & Sohne ⇒発音例)は、ドイツに本拠地を有する高級時計ブランド。リシュモングループに属する。 グラスヒュッテの伝統技法に基づいた時計づくり、ドイツのマイスターの手作業による仕上げの美しさ、プラチナやゴールドモデルを中心とする等の方針で高級時計メーカーと認知されており、ムーブメントも含めた自社一貫生産体制をとるメーカー(マニュファクチュール)としても地位を確立している。また、マニュファクチュールであっても外部調達していることが多いヒゲゼンマイも、ランゲは自社製造している[1]。 ドイツ語に近い表記は「ランゲ・ウント・ゼーネ」になる。Sohneはドイツ語で息子の意味で、欧米の企業名にみられる「& sons」に相当する。 代表モデルであるランゲ1は、時分針がオフセンターに配置された特徴的な時計であり黄金比が使われていることでも知られている[2]。 ドイツ・ザクセン王国のドレスデンで生まれたフェルディナント・アドルフ・ランゲ(Ferdinand Adolph Lange 、1815年2月18日[3] - 1875年[3]12月3日、以下アドルフ・ランゲ)は1830年[3]に後に宮廷時計師となる著名な時計師、ヨハン・フリードリヒ・グートケス(Johann Friedrich Gutkaes 、1785年-1845年8月8日)に弟子入りし、時計師としての修行を始めた[3]。1837年からフランス、スイス、イギリスなどに3年間時計製造の手法を学び、現在『旅の記録』として知られる手帳を残した[3]。アドルフ・ランゲはこの修行の旅の結論として、今後の時計製造においては、精密な計測が可能な測定器具を駆使し、合理的で緻密な製造方法を採るべきであると考えた。1840年ドイツに帰国し、ドレスデンにあるグートケスの工房に戻った。 この頃、過去に銀採掘で栄えたグラスヒュッテ 1868年にはフェルディナント・アドルフ・ランゲの長男リヒャルト・ランゲが経営に参画し、屋号をA.ランゲ&ゾーネとした[3]。1871年には次男のエミール・ランゲも経営に参画。普仏戦争が終結した1871年頃から第一次世界大戦後の恐慌に見舞われる1920年代前半頃まで最盛期を迎えた[3]。しかしインフレーションにより生産量が激減、これはグラスヒュッテ時計会社の統合企業設立により何とか乗り切ったものの、第二次世界大戦勃発により軍需工場とされ、1945年5月8日にソビエト連邦軍の空襲により工房は焼失した[3]。 さらに戦後、グラスヒュッテは社会主義国東ドイツの領土になってしまったため、1948年4月20日に設備や資産を政府に接収された上でグラスヒュッテ国営時計会社に統合された[3]。創業者フェルディナント・アドルフ・ランゲから数えて4代目のウォルター・ランゲ(Walter Lange)は1948年に西側のプフォルツハイムに亡命した[3]。 ウォルター・ランゲはプフォルツハイム[3]に時計工房を開いて1960年代にインターナショナル・ウォッチ・カンパニーと協力関係を作り、再興を意図するが、クォーツ・ショックにて頓挫した[3]。 1990年10月3日に東西ドイツが統一された際、自身も時計師としての経験を持つドイツの財閥マンネスマングループの鉄鋼部門の代表が「統一を記念してドイツ時計の最高峰を復活させよう」と傘下のインターナショナル・ウォッチ・カンパニーの社長ギュンター・ブルームラインに命じ、偶然にもマンネスマン傘下の企業に勤めていたウォルター・ランゲを探し出しブランドが再建された。1990年12月7日、A.ランゲ&ゾーネの再登記と商標登録がされた[3]。 かつて存在したA.ランゲ&ゾーネを継承しているのはグラスヒュッテ・オリジナルで、現在のA.ランゲ&ゾーネの創業年は厳密には1990年であるが、元々の創業家子孫が自ら再興したという点においては歴史の継続性が高く評価されている。 1994年[3]10月24日、新たな出発となる新工房の第1号コレクション「ランゲ1[3]」「アーケード」「サクソニア」「トゥールビヨン“プール・ル・メリット”」の4ラインが発表された[4]。 2000年にはその再建を支援したインターナショナル・ウォッチ・カンパニーとともにリシュモングループ傘下のブランドとなった[5]。
概要
歴史
創業者、フェルディナント・アドルフ・ランゲ
息子たちの参加、全盛期と破滅
復興
年表
1815年 - ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・グートケス(Johann Cristian Friedrich Gutkaes )がドレスデンに工房を構えた。
1830年 - アドルフ・ランゲがグートケスの工房に丁稚奉公に出た[3]。
1837年 - アドルフ・ランゲがグートケスに認められ、パリに旅行してオーストリア出身の時計師ヨーゼフ・タドイス・ヴィナール(Joseph Thaddaus Winnerl 、1799年1月25日-1866年1月27日)の下で働いた[3]。
1840年 - アドルフ・ランゲがグートケスの工房に戻った[3]。
1845年[3]12月7日 - アドルフ・ランゲはドレスデンからグラスヒュッテに移住しザクセン王国の支援を受け自分の工房A・ランゲ・ドレスデン(A. Lange Dresden )を創業した[3]。
1849年 - アドルフ・ランゲがグラスヒュッテ市長に推挙され、1867年まで務めた[3]。