ランカスター郡_(ペンシルベニア州)
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ペンシルベニア州ランカスター郡
ランカスター市にあるランカスター郡庁舎
郡のペンシルベニア州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1729年5月10日
郡庁所在地ランカスター
最大の都市ランカスター
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
2,549 km2 (984 mi2)
2,458 km2 (949 mi2)
91 km2 (35 mi2), 3.53%
人口
 - (2020年)
 - 密度
552,984人

標準時東部: UTC-5/-4
ウェブサイト ⇒www.co.lancaster.pa.us

ランカスター郡(: Lancaster County、地元では [?la?k?st?r])は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州の南東部に位置するである。人口は55万2984人(2020年)[1]郡庁所在地ランカスターであり、同郡で人口最大の都市である。

ランカスター郡はランカスター都市圏を構成しており、その都市圏人口は国内361の都市圏の中で第99位である。ランカスター郡は人気のある観光地になっている。「アメリカの庭園スポット」[2]あるいは「ペンシルベニア・ダッチの国」という綽名がある。ペンシルベニア・ダッチという言葉は、18世紀と19世紀に、ウィリアム・ペンが提示した信教の自由を求めて移民してきたドイツ人(ドイツ語でドイッツェ)から派生した言葉である[3]。これら移民は肥沃な土壌と温暖な気候に惹きつけられて来た[4]。貧困から脱出することと、ドイツの政治的な不安定さも大きな要因だった。また宗教的迫害から逃れてきたフランスユグノーや、イングランド人ウェールズ人、スコットランド・アイルランド人[5]も18世紀初めに信教の自由を求めて移住してきた[6]
歴史

ランカスター郡となった地域は、ウィリアム・ペンが1681年に勅許を受けた地域の一部であり[7]、1691年にジョン・ケナリーがペンから最初の権利譲渡を受けていた。マティアス・クライダーが1691年にはこの地域に入っていたとされているが、1710年以前に実際に入植されていたという記録は残っていない[8]

ランカスター郡は当初チェスター郡の一部とされており、1729年5月10日に州内4番目の郡として設立された[9]。郡名はイングランドランカシャー州にあるランカスター市から採られた。初期開拓者の1人であるジョン・ライトがそこの出身だった[10]。ランカスター郡の領域は現在よりもかなり広かった。その中から6つの郡がその全域あるいは一部を取って作られた。すなわち、バークス郡(1752年)、カンバーランド郡(1750年)、ドーフィン郡(1785年)、レバノン郡(1813年)、ノーサンバーランド郡(1785年)、ヨーク郡(1749年)である[9]。これら6郡からさらに多くの郡が作られていった。
インディアン

この地域に住んでいたインディアン部族としては、ショーニー族サスケハノック族、ガワニーズ族、レナペ族(デラウェア族)、ナンティコーク族がいた[11]

サスケハナ川バレーの初期住人として記録が残っているのはイロコイ語族のサスケハノック族であり、その部族名はアルゴンキン語で「泥の多い川の人々」を意味した。その主要集落が「ケインストージ」と呼ばれたことからコーンストーガ族とも呼ばれ、その集落は英語でインディアンタウンとも呼ばれた。ヨーロッパ人開拓者からは友好的な部族と見なされ、キリスト教に改宗し、交易用にほうきや籠を制作し、子供にはお気に入りの隣人から名前を付けていた[12]

しかし1763年夏にポンティアック戦争が起こり、これに植民地政府の和解と軍事力を使った実効の上がらない政策が組み合わされ、フロンティアにおけるインディアン部族すべてに対する疑念と憎しみが生じた。1763年12月14日、マシュー・スミスとラザラス・スチュワート大尉が率いたパクストン・ボーイズがインディアン集落に侵入し、そこにいた6人のインディアンを殺し、その家を焼いた。インディアンの生存者14人が保護のために郡監獄に収容されていたが、パクストン・ボーイズが12月27日に戻り、監獄に押し入り、残っていたインディアンを虐殺した。政府の制御には実効無く、この殺人者たちにはフロンティアで広く同調する心情があったことから、殺人者たちを見つけて逮捕しても無意味なものになった[13]
メリーランド・ペンシルベニア境界紛争メリーランド・ペンシルベニア境界紛争、 the conflict occurred in the Conejohela Valley with the northern apex just north of the mid-river Coejohela Flats islands, south of Wrightsville, Pennsylvania, which are now inundated after the Safe Harbor Dam flooded the upper Coejoheala under Lake Clarke.

ペンシルベニア植民地の南側境界、すなわちランカスター郡の南側境界は長年境界紛争の対象とされ、1730年にサスケハナ川を渡すライトの渡しが造られた時から9年間にわたる武装衝突に発展した。メリーランド植民地領主ボルチモア卿は、その勅許された領地[14]北緯40度線まで伸びていると考えた[15]。この線が有効であれば、ランカスターやウィロウストリートの町を半分に区切り、フィラデルフィアはメリーランドの中に入ることになった。

1730年初期に、突然サスケハナ川を渡って開拓者が流入し、ライトの渡しに免許が出されて正式に運航が始まったことで、ボルチモア卿の手下であるトマス・クレサップがこの年半ばにピーチボトムやコロンビア(当時は名前がまだ無くその後ライツフェリーと呼ばれるようになった)近くの入植されたばかりの農園を押収し始めた。ボルチモア卿はこれらの土地から収入を得ることを期待していた。1721年以来、その領土が北緯40度線まで伸びているとするサスケハナ川西岸の領有権は防衛できると考えていた。ペンシルベニア人が反抗の動きなしに彼の土地に入植し、入植に対する反論も無ければ、危険にさらされる可能性もあった。

クレサップ大尉の当初の行動は当たり障りの無いものであり、コーンジョヘラの上流に第2の渡しを設立し、そこはジョン・ライトの渡しからは下流だが、クレサップの義父の入植地ピーチボトムに近かった。入植者にはそこから出ていくか、メリーランドに土地の利用料を払うことを要求した。ここから事件が起こり、間もなくクレサップの戦争が始まった。クレサップは農園を破壊し、家畜を殺し、開拓者をヨーク郡南部やランカスター郡に追い出し、土地を自分の追随者に与え始めた。追随者の1人が逮捕されると、メリーランド人はランカスターの勾留所を破ってその者を救い出した。

ボルチモア卿は1733年に妥協案を交渉したが、クレサップはそれを無視し、襲撃を続けた。


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