ラルフ・バンチ
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ラルフ・バンチ
Ralph Bunche
ラルフ・バンチ。1963年のワシントン大行進にて
生誕Ralph Johnson Bunche
(1904-08-07) 1904年8月7日
アメリカ合衆国 ミシガン州デトロイト
死没1971年12月9日(1971-12-09)(67歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク
出身校カリフォルニア大学ロサンゼルス校(BA)
ハーバード大学(PhD)
ノースウェスタン大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
著名な実績イスラエル和平調停
子供3
親戚ラルフ・J・バンチ3世(英語版)(孫)
受賞ノーベル平和賞(1950)
署名

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ノーベル賞受賞者
受賞年:1950年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:パレスチナ和平調停に尽力し、アラブ諸国イスラエルの停戦交渉に貢献

ラルフ・ジョンソン・バンチ(Ralph Johnson Bunche ([b?nt?])、1904年8月7日 - 1971年12月9日)は、アメリカ合衆国政治学者・外交官である。1949年第一次中東戦争での調停の功績が認められ[1][2]1950年ノーベル平和賞を受賞した。これは黒人として初めてのノーベル賞受賞だった。また、国連の設立とその運営に携わり、国連が実施した数々の平和維持活動で大きな役割を果たした。1963年アメリカ大統領ジョン・F・ケネディから大統領自由勲章を授与された[3]

バンチは、国連憲章を起草した1944年のダンバートン・オークス会議と1945年のサンフランシスコ会議の両方でアメリカ代表団の一員だった。1946年に開催された国連総会の第1回会合にもアメリカ代表団として参加した。その後、信託統治部の部長として国連に入り、長きに渡り問題解決の役割を続けた。1948年には中東の調停官代理となり、エジプトとイスラエルの間で休戦交渉を行った。この成功により、1950年のノーベル平和賞を受賞した。その後も国連で活動し、シナイ危機(1956年)、コンゴ危機(1960年)、イエメン危機(1963年)、キプロス危機(1964年)、バーレーン危機(1970年)の解決に取り組み、国連事務総長に報告した。また、中東の水資源に関する研究グループの議長も務めた。1957年には特別政治問題担当事務次長に昇格し、平和維持活動の主要な責任者となった。1965年にはインド・パキスタン戦争の停戦を監督した。1971年に国連を退官した[4]
出生と家系

バンチは1904年ミシガン州デトロイトで生まれた。父フレッド(Fred)は理容師、母オリーブ・アグネス・ジョンソン(Olive Agnes Johnson)はアマチュア音楽家だった[5]

母方の祖父トーマス・ネルソン・ジョンソン(Thomas Nelson Johnson)の母エレノア・マデン(Eleanor Madden)は、アイルランド系農場主の父とアフリカ系奴隷の母と間の子供だった。トーマス・ネルソン・ジョンソンは1875年にイリノイ州オールトンのシュートレフ大学(英語版)を卒業し、そこで教師として働いた。1875年9月、彼は教え子の一人であるルーシー・テイラー(Lucy Taylor)と結婚した[5]

系図学者のポール・ハイネッグは、ラルフ・バンチの父のフレッド・バンチはサウスカロライナ州からの分家の子孫だと考えているが、それは完全には証明されていないと述べている。ハイネッグによれば、デトロイトの1900年と1910年の人口調査にはサウスカロライナ州で生まれたバンチ家の一員が何人か載っているが、フレッド・バンチはその中には含まれていない[6]。ハイネッグは、バンチの祖先はアメリカ独立以前にバージニア州で有色自由人(英語版)としてバンチ家を創設した者であると考えている。18世紀末までには、サウスカロライナ州にもバンチ姓の人物がいた[6]。バンチ(Bunch/Bunche)という姓は非常に稀なものだった[7]。有色自由人であるバンチ家の設立から数世代の男性は、イギリス出身の白人女性の入植者と結婚したため、その子供たちもまた自由人だった[8]
若年期と教育サウス・ロサンゼルス(英語版)にあるラルフ・J・バンチ・ハウス(英語版)。バンチが幼少時に祖母と一緒に住んでいた。

ラルフが子供の時に、一家はオハイオ州トレドに転居した。1909年に妹のグレースが生まれた後、母方の叔母のエセル・ジョンソンの助けを借りてデトロイトに戻ってきた。父はオハイオ州に残ったが、ラルフらがニューメキシコ州に転居した際には、父もその後を追った[5]

母と叔父の健康状態の悪化のため、ラルフは母方の祖母のルーシー・テイラー・ジョンソンと共に1915年にニューメキシコ州アルバカーキに引っ越した。母は1917年に亡くなり、叔父はその3か月後に自殺した[5]

1918年、ルーシー・テイラー・ジョンソンは2人の孫とともに、当時白人が多かったロサンゼルスのサウス・ロサンゼルス(英語版)に引っ越した[5][9][10]。フレッド・バンチは後に再婚し、それ以降、ラルフは2度と父に会うことはなかった[5]

バンチは優秀な学生で、討論家であり、ジェファーソン高校の卒業時には卒業生総代(英語版)を務めた。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学し、1927年に優秀な成績(summa cum laude)で卒業し、卒業生総代となり、優秀な学生のみが入会できるファイ・ベータ・カッパの会員になった[11]。地域社会から集められた学費と奨学金を使ってハーバード大学大学院に進学し、政治学PhDを取得した。大学にはスポーツ奨学金を得て入学していたため、野球やサッカーチームでプレーを行っていた[12]

ハーバード大学在学中、バンチは生活費を稼ぐために近くの書店でアルバイトをしていた。書店の店主はバンチの働きぶりに満足していた。ある日、店主がバンチを呼び出して、「君が黒人だと人々が私に言ってくる。私は気にしないが、君はどうだ?」と尋ねた。バンチは「あなたはどう思いましたか?」と聞き返すと、店主は「私は君をちゃんと見ていなかったようだ」と答えた[10]

バンチは、1928年に政治学の修士号を取得し、1934年に博士号を取得したが、その間に名門黒人大学であるハワード大学の政治学科で教鞭をとっていた。当時、博士号取得者は学位論文の提出前から教職に就くのが一般的だった。


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