「モンテカルロ・ラリー」はこの項目へ転送されています。1969年の映画については「モンテカルロ・ラリー (映画)」をご覧ください。
ラリー・モンテカルロ
Monte Carlo Rally
状況平常
種類世界ラリー選手権
頻度毎年
会場所在地モナコ, フランス
初回開催1911年
1999年大会
ラリー・モンテカルロ(仏: Rallye Automobile Monte Carlo)は、モナコ公国を中心に行われる世界ラリー選手権 (WRC) のイベント。1911年より行われている、ラリー競技の雛形となった歴史的イベントである。
概要1911年大会のポスター
F1のモナコグランプリと同じく、モナコ自動車クラブ(Automobile Club de Monaco、ACM)がラリーを主催する。初開催されたのはインディ500初開催年と並び同年となる1911年で、現在行われている国際モータースポーツイベントの中でも最も古い部類に入る。格式も高く、いわゆる世界三大レースにも匹敵すると言われている。
例年1月下旬に開催され、ダカール・ラリーやデイトナ24時間レースと並んで、新年のモータースポーツシーズンの幕開けを告げるイベントでもある。世界ラリー選手権(WRC)では伝統的に開幕戦として行われるが、例外もあった[注釈 1]。1996年はWRC開催地のローテーション制(各イベントを1年おきに開催)が導入され、当時WRCの下位クラスだった2リッターワールドカップ(W2L)の一戦として開催された。また、2009年から2011年は主催者ACMの判断により、当時WRCを凌ぐ人気を得ていたインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) の一戦として開催されていたが、2012年からWRCのカレンダーに復帰した[1]。
かつては参加車がヨーロッパ各都市を出発して約1,000 kmを48時間で走りきり、本戦前にモナコに集参する「コンサントラシオン[注釈 2]」(正式名称:「パルクール・デ・コンサントラシオン」)という前座ステージがあった。初期には競技の主体であったが、各ラリーの画一化を図る国際自動車連盟(FIA)の意向、主催のACMが各都市で車検を行う事への負担、および1980年代以降のラリーがSS主体で争われる競技へ変質したことから、ラリーのプロモーションという面しか持たなくなり、WRCとしては1995年を最後に廃止された[注釈 3]。コンサントラシオンは、その後1997年よりヒストリックカーカテゴリ[2]として分離し、受け継がれている。詳細は後述の「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」を参照。 地中海沿岸の高級リゾート都市モナコのモンテカルロ地区にスタート/ゴール地点が置かれる。有名な公営カジノ前の広場でセレモニアルスタートが行なわれ、夜間にモナコから北西に300 km以上離れたフランスオート=アルプ県の山岳地帯へ移動。2日目・3日目はギャップを拠点に、周辺のアルプス山脈の険しく曲がりくねった峠道を走行する。その後再びモナコへ戻り、上位60台のみが最終日のSSアタックへ向かう。最終日恒例のモナコGPコースで行われるタイムトライアルは1964年に廃止されたが、2007年からGPコースの一部を使用したスーパーSSへと刷新された。競技終了後は宮殿前で表彰式が行なわれ、時のモナコ大公から銀の賞杯が授与される。 舗装された公道を走るターマックラリーであるが、真冬の山間部は天候が変わりやすく、路面状況もドライ、ウェット、アイス、時にはスノーと刻々と変化し、タイヤ選択が非常に難しいことで知られる。アイスノートクルー(偵察班)の事前報告に基づくペースノートの修正、難しい路面状況でも慎重にタイムロスを抑える運転など、車の性能よりも選手の経験や技量がものをいうイベントである。 SSはレースゲームなどでも再現されたチュリニ峠(Col de Turini
特徴
1900年代初頭に盛んだった都市間レースが禁止されたあと、自動車競技はサーキット(閉鎖周回路)でスピードを競うレース[注釈 4]と、公道で車の耐久性や運転の正確性を競うラリーに分化していく流れになる。ラリー・モンテカルロが企画された背景には、リゾート地モナコへ富裕層のバカンス客を呼び込もうという観光振興策があった。ヨーロッパ各地の都市から地図を頼りに南仏を目指し、真冬の山道を越えて地中海岸のモナコへ集合するというイベントには、富裕層のカーオーナーを惹きつける冒険的な魅力があった。当初は出発地からモナコに到着するまでの所要時間を競うイベントであり、1日の最高平均速度15.5マイル(約25km/h)、ルート上に設定された100kmを毎日走行するというルールがあった。また、上流階級の社交行事という色合いが濃く、車体のエレガントさやコンディションの審査結果も順位に反映された。
1911年の第1回大会は参加23台中18台が完走し、パリ発(距離1,020km)のアンリ・ルジェ (Henri Rougier) が優勝した。しかし、ベルリン発(距離1,800km)で最も早く到着したフォン・エスマルヒの降着を巡って「フランス贔屓」という批判が起きる。1912年の第2回大会も審議に対する揉め事が起こり、1913年と1914年は開催されず、さらに第一次世界大戦開戦によって10年間の空白期間に入る。
モータースポーツイベントとしての成長1934年出場車フォードV8
大戦が明け、1924年3月にラリー・モンテカルロが再開される。競技形態は第1回大会と変わらず、欧州各国よりスタートしたのは30台となる。この時の優勝車のスペックは、2.0L直列4気筒エンジンの仏車ビニュナン。
翌、1925年には従来通り1月開催に戻され、参加42台に対して完走32台。優勝はルノー・40CV。女性ドライバー、マルティンがランチア・ラムダを駆り2位に入った。